明治期以降の富国強兵政策,地租改正等の国家政策が推進される中,国の将来を担う世代の教育もまた重要な課題となった。そのため「子どもをどのように育てるのか」,これは第一義的な政策の検討課題であり,明治初期には学制の発布,幼稚園の誕生,間引き・堕胎の禁止など,政府による親子(主に母子)に対する制度が成立した。しかし近代国家から資本主義国家へと移行する中,その失敗から生まれる貧困等の社会問題への支援・対処に政府が踏み出すのは,主に明治期後半の日露戦争以後のことである。加えてその内容は極めて限定的であり,問題の発生原因の究明や科学的見地に立った政策ではなく,救貧は惰民の増加を助長するという考えに基づき,個人の道徳心を醸成することに向かった。貧困の放置は農村部から都市部への人口移動(出稼ぎ・身売り)を生み,都市でスラムを形成するに至った。さらに農村においても,旧来からの農村共同体を利用した国家による「組織化」を図り,将来の兵力確保,資本主義資本への投入,国家全体の国民組織化へと突き進んでいった。そのような状況から,これまで貧困問題や労働問題に対して都市部を中心に据えることが多かったが,農村部における思想統制,貧困対策,運動等は特にわが国の戦時下体制に大きく影響を与えていることがわかった。本論は,現在の社会福祉の前流である社会事業(主に大正期-戦前)にまで遡り,農村特有の社会事業論である農村社会事業に焦点を当て,中でも農村児童問題を対象とした実践・研究を中心に,戦時政策と農村社会事業運動・理論の関係性の中で生み出された政策や運動が,如何に農村の児童問題と密接に絡んでいたのかを考察する。農村社会事業農村漁村経済更正運動児童保護農繁期託児