(前号より続く)Persephone (1969)の最終章の舞台は、若き彫刻家コンスタンティンの住む「古い家(オールド・ハウス)」である。コンスタンティンはペルセポネへの熱い思いをもてあまし、彼女の妊娠を知って感覚的麻痺をつのらせるが、もがき続けた果てに彼女こそが「愛」を喚起する存在であることを悟る。二人が結ばれる前の締めくくりに、ペルセポネが上流階級の血を引く私生児であることが明かされる。残念ながら、この部分は読者にとって蛇足としか言いようがない筋書きである。この物語でBostonは、異端の15歳の少女の高潔さや完全さが、数々の試練や他人からの信頼などを通して、いかに守り通されるかを投げかける。この哲学的探究は、Green Knoweシリーズにも通じている。幼年向け5作品の一つ、The Castle of Yew (1965)では、断固たる偽りの排除が目論まれている。ジョセフは、ヘミングフォード・グレイのマナ・ハウスを彷彿とさせるイチイの城で危機に立ち向かう。少年の不安が一貫するこの物語において、作者は少年を見守り、初対面の遊びの無作為さを完璧に捉えている。The Sea Egg (1967)はトビーとジョーのある夏の休暇を描く。二人は海から来た美しい卵形の石を手に入れる。海のたまごからはトリトンがかえり、二人は危険を冒しては海へ彼に会いに行く。夕潮や海の神秘が表現豊かに描写される。この物語で作者は、子どもたちの自由で素朴な純真さと信条と、森羅万象に寄せる信頼を描くことにもっぱら心を砕いている。Nothing Said (1971)では、少女、古い館、川と木のある庭、犬など、物語の要素が詩や絵の一部のように組み合わされ、主張や教訓は文字通り「何も語られない」。リビイが夢うつ...