本論は朱子『四書章句集注』の解説書、いわゆる四書疏釈書が南宋で登場したその要因を考察した。宋代の経書注釈書の特徴は「議論」形式であるのに対し、『四書集注』は簡略を宗とする「訓詁」を重んじた。そのため該書は読者には理解が難しく、朱子は口頭での解説を積極的に行い、その結果多くの語録が残された。四書疏釈書はそのような語録を引用した書物であるため、朱子の意に反し「議論」形式に逆戻りしたものである。一方、経書を言葉で論理的に説明する方法を批判した陸象山も、自説拡大のためには時に多言を費やし、門人達も語録を編纂するなど師の言葉を多く残そうと務めた。しかし陸学派は朱子学との対抗上、「文字言語」を用いない学問として自己規定することで、自派の純化を図ったが、その勢力は朱子学に及ばなくなっていった。つまり、知識人の底辺が拡大した南宋社会にあって、大量に生み出された初学者たちは、言葉による丁寧な解説がなければ理解できず、四書疏釈書はそのような人々の需要に応じて登場したのである。This article discusses factors concerning the question of why the Collective Commentaries on the Four Books 四書疏釈書 appeared during the Southern Song. These commentaries provided further explanations of Zhu Xi's commentaries on the Four Books, the Sishu zhangju jizhu 四書章句集注. Collective Commentaries were published one...