本稿では、マンジュ・モンゴル軍事同盟の展開という側面から、崇徳元年(一六三六)の外藩蒙古会盟を、特に会盟の結果報告にみられる甲数に焦点を当てて論ずる。天命年間の後金は、ハルハ・ホルチンと盟約を結んだが、いずれも軍事協力の内実を確保するには至らなかった。天聡年間の場合は、モンゴルの諸集団からの兵力動員に成功し、天聡三年(一六二九)には動員基準も制定した。但し、天聡三年の規定では十分な兵力の動員を保証できなかった。さらに、チャハルの崩壊とダイチン=グルンの成立は、天聡三年の規定の改正を余儀なくさせた。そのなかで、清は崇徳元年に外藩蒙古会盟を開いて、新たな甲数を規定した。この甲数は、天聡三年の規定に代わる常時的な動員基準ではなく、当面した朝鮮侵攻、即ち丙子胡乱のために「割り当てた」兵力であった。しかし、崇徳元年の会盟で決められた甲数は、その後の対明戦争で外藩蒙古に兵力を要求する時、重要な先例として援用された可能性がある。In the tenth lunar month of the first year of the Chongde 崇徳 reign (1636-1643), or November 1636 according to the Gregorian calendar, Qing Taizong 清太宗 (Hong Taiji) sent his ministers to preside over assemblies of Mongol nobles at two different venues. This paper will inquire into the pacts concluded at the 1636 Mongol assemblies from t...