漢代の画象石の機織圖は既知の三種に新出のものを加えて五種となつた。この機織圖に基き、その技術的解明を試みた。先奏や魏晋以降の機織法は具體的に知る史料がないが、我彌生式土器時代及古墳時代の機織法は幸い出土遺物によつて最近多少明らかになつたが、画象圖機との關係は絶無でない。次に漢画象圖機を中心とし、我古代機織法の發展段階を參考して、一應古代からの中國機織技術の發展段階の推考を試み、機を織る操作を細かく分析し、その能率を測定し、先秦及魏晋以降と比較してその生産能力の程度を明かにした。後漢末に錢貨に代つて布帛が擡頭し、中國中世の幣制・税制に重大な變革の端緒を開いたが、この變革には布帛の生産力の高くなつたことが作用しているらしく、この點に關して私見を述べた。又魏晋以降に普及した所謂絹機はその後葱嶺を越えて西傳したらしい痕跡が認められるが、中國古代機法この意味でかなり重要視されねばならぬ。In Addition to the already known three steles of the Han Dynasty two more have become avilable in the course of recent years. The author attempts to elucidate the technological side of weaving in Ancient China in the light of these steles. Though there is. no material which contributes directly to the elucidation of the weaving technique in ancient China...
三世紀以前の鮮卑史に関わる資料の一つに、五胡十六国時代の鮮卑系諸国家の建国説話がある。本稿は、そのうち最も豊富な内容をもつ『魏書』序紀を分析し、その所見を踏まえて、三世紀以前の鮮卑史の一端を解明するも...
江蘇省淮安市から出土した運河村墓は戦国中後期の境に造営された楚国の墓とされ、楚が前四世紀末には[カン]溝以東まで支配を拡大していた証左とされた。しかし本稿では同墓が土着の習俗を保持した楚墓とは異質な墓...
南宋高宗建炎元年春正月は科挙の省試を行うべき時期に当つていたが、靖康の難のため施行することが出来なかつた。同年十二月揚州の行在に駐蹕していた高宗は一つの詔を発し、本来礼部が主宰して都で行うべき省試を仮...
英文タイトル訂正済み(72巻5号p.819による)西周末期に行われた鄭の「封建」は、周王朝の封建制の実態を知る上で貴重な実例となるものである。しかし、この西周末期から王朝の東遷期にかけての時代は、同時...
中国史学史の上からいえば、明代は特に稔り豊かな時代であったとはいえない。しかし明代中期以後になると、前期にみられた野史的掌故の学にかわって、幾多の記録や実録などにもとづいた合理的な史学研究が行われるよ...
一九六二年七月五日、龍大の講演のテキスト。龍大所蔵の西域文書の重要性について述べ、併せて西域文化研究会の研究と出版の業績の偉大さに言及した。西域は中国文化と中央アジア文化の交流混合の所 (例、銅銭と銀...
個人情報保護のため削除部分あり兀者衛人は、明代の松花江流域に住んだツングース系部族の一種である。兀者衛に関する記録は、今日ではほとんど遺存せず、ただ朝鮮世宗二十一年(一四三九) 正月、都児也という兀者...
秦漢帝国の瓦解から隋唐の中間的統一に至るまでの中国の都市の有様について目につくことは、(1)長安・洛陽の如き旧都は何度もの破壊にも拘らず、新しい支配者 (多くは遊牧民族) により修復され、漠代には地方...
十三世紀、モンゴル人が北中国の地を征服した時、モンゴル政権の内部に、強烈なモンゴル至上主義をふりかざす一派に対して、漢人および漢文化を保護しようとする文化主義の一派があつた。この文化主義派の中にも、二...
宋代の地方制度は中央の官制と同様に複雑を極めたものであつた。それは唐代の地方民政機関としての州が、藩鎮の跋扈の影響を受けて軍事化し、州院と使院との二重体制が生じたためである。宋代に入つても形式上はこれ...
個人情報保護のため削除部分あり本稿においては、明清時代の珠江デルタを対象として、特定の地域における宗族形成の実態を追求した。その結果明らかにされたのは、明代中期以降、郷紳等の階層が、その在世中に商業・...
十世紀から十三世紀に亘る宋時代における商業の発達という現象は、中国史の流れの中でも一際めだつものであり、いろいろな角度から綿密に考証されねばならぬ。それと密接に関連する、この時代の貨幣経済の発展につい...
律令制成立期の紡織体制について、特に平織の布や絹の生産の仕組みは史料の制約からほとんど明らかでない。本稿では、七世紀後葉以降に宮都や地方の官衙遺跡から多く出土する綛かけ・糸枠について、機能上必要な加工...
個人情報保護のため削除部分あり本稿は、明末清初の時期、広東珠江右岸デルタ地帯で展開された社賊、土賊の反乱の性格究明を直接の課題としている。社賊、土賊の反乱は、ともにに対する抵抗運動としての性格をもって...
近年、東北アジア各地から出土する馬具を一連の系統として理解する研究が盛んにおこなわれている。しかし、各地から出土する馬具の併行関係や年代観については未だ意見の一致をみていない。そこで本稿では、製作技術...
三世紀以前の鮮卑史に関わる資料の一つに、五胡十六国時代の鮮卑系諸国家の建国説話がある。本稿は、そのうち最も豊富な内容をもつ『魏書』序紀を分析し、その所見を踏まえて、三世紀以前の鮮卑史の一端を解明するも...
江蘇省淮安市から出土した運河村墓は戦国中後期の境に造営された楚国の墓とされ、楚が前四世紀末には[カン]溝以東まで支配を拡大していた証左とされた。しかし本稿では同墓が土着の習俗を保持した楚墓とは異質な墓...
南宋高宗建炎元年春正月は科挙の省試を行うべき時期に当つていたが、靖康の難のため施行することが出来なかつた。同年十二月揚州の行在に駐蹕していた高宗は一つの詔を発し、本来礼部が主宰して都で行うべき省試を仮...
英文タイトル訂正済み(72巻5号p.819による)西周末期に行われた鄭の「封建」は、周王朝の封建制の実態を知る上で貴重な実例となるものである。しかし、この西周末期から王朝の東遷期にかけての時代は、同時...
中国史学史の上からいえば、明代は特に稔り豊かな時代であったとはいえない。しかし明代中期以後になると、前期にみられた野史的掌故の学にかわって、幾多の記録や実録などにもとづいた合理的な史学研究が行われるよ...
一九六二年七月五日、龍大の講演のテキスト。龍大所蔵の西域文書の重要性について述べ、併せて西域文化研究会の研究と出版の業績の偉大さに言及した。西域は中国文化と中央アジア文化の交流混合の所 (例、銅銭と銀...
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秦漢帝国の瓦解から隋唐の中間的統一に至るまでの中国の都市の有様について目につくことは、(1)長安・洛陽の如き旧都は何度もの破壊にも拘らず、新しい支配者 (多くは遊牧民族) により修復され、漠代には地方...
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個人情報保護のため削除部分あり本稿においては、明清時代の珠江デルタを対象として、特定の地域における宗族形成の実態を追求した。その結果明らかにされたのは、明代中期以降、郷紳等の階層が、その在世中に商業・...
十世紀から十三世紀に亘る宋時代における商業の発達という現象は、中国史の流れの中でも一際めだつものであり、いろいろな角度から綿密に考証されねばならぬ。それと密接に関連する、この時代の貨幣経済の発展につい...
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個人情報保護のため削除部分あり本稿は、明末清初の時期、広東珠江右岸デルタ地帯で展開された社賊、土賊の反乱の性格究明を直接の課題としている。社賊、土賊の反乱は、ともにに対する抵抗運動としての性格をもって...
近年、東北アジア各地から出土する馬具を一連の系統として理解する研究が盛んにおこなわれている。しかし、各地から出土する馬具の併行関係や年代観については未だ意見の一致をみていない。そこで本稿では、製作技術...
三世紀以前の鮮卑史に関わる資料の一つに、五胡十六国時代の鮮卑系諸国家の建国説話がある。本稿は、そのうち最も豊富な内容をもつ『魏書』序紀を分析し、その所見を踏まえて、三世紀以前の鮮卑史の一端を解明するも...
江蘇省淮安市から出土した運河村墓は戦国中後期の境に造営された楚国の墓とされ、楚が前四世紀末には[カン]溝以東まで支配を拡大していた証左とされた。しかし本稿では同墓が土着の習俗を保持した楚墓とは異質な墓...
南宋高宗建炎元年春正月は科挙の省試を行うべき時期に当つていたが、靖康の難のため施行することが出来なかつた。同年十二月揚州の行在に駐蹕していた高宗は一つの詔を発し、本来礼部が主宰して都で行うべき省試を仮...