当研究所が実施している平城宮跡大極殿の復原研究の一環として、扁額に関する研究を近年継続している。このうち、意匠に関する成果は『紀要2008』で発表した1)。本稿は、扁額形状と建築構造形式との関係を追求した成果と、この成果に基づき考案した大極殿復原扁額について記すものである。なお、扁額事例は『紀要2008』7頁掲載の表を参照されたい
京都御所御池庭と御常御殿を御池南側の中島に架かる欅橋より北に望む。右方には北側の中島に石橋が架かり、御常御殿前には松や樅が植えられる。御池庭は延宝年間(1673~81)に造られた回遊式の庭園で、御常御...
埼玉県越谷市能楽史における著名な出来事である、寛永十一年(一六三四)九月、後水野尾院仙洞御所で催された所謂仙洞能は、東福門院和子の申沙汰によって開催されたものであることを初めて確認し、その資料として用...
本稿の主目的は、文久期前半における「皇政回復」という概念の実態を解明することにあり、島津久光の率兵上京に至る薩摩藩の動向を明らかにしつつ、封建諸侯、朝廷および西国志士の具体的な建白等の政見を検証するこ...
平城宮第一次大根殿院楼閣の骨格復原については、『平城報告XI』 (奈文研1982) で初めて示され、以後平成5年(1993)、平成13年(2001) に改良案が提示された。いずれも前案の構法的弱点を修...
平城宮第一次大極殿院は、立体感のある地形に特徴がある。だがそれは同時に、旧地形が改変を受けやすいことをも意味、とりわけ創建当初の回廊は遺構の残存状況が悪く、その復原も困難を極める。そのため、これまでに...
西の丸下(現皇居外苑)から写した西の丸大手橋(手前)と西の丸下乗橋(奥の橋)。西の丸下乗橋は、堀が深いため上下二重に架けられた珍しい構造だった。それで二重橋という俗称が生まれた。左の門が西の丸大手門。...
平城宮の東張出し部の入隅に南面して聞く小子門の創建が、従前の理解、つまり神亀年間(724-729)に下るとされていた見解が妥当ではなく、平城宮の造営当初にさかのぼる可能性が高いことが、すでに小澤毅によ...
内堀(二重橋堀)に架かる郭門橋は寛政年間(1789ー1801)頃の架橋といわれている。江戸・明治期には手前が西の丸大手橋で奥が西の丸下乗橋と称されたが、いま宮内庁で使用している名称は写真で手前が「皇居...
江戸期には本丸大手門が江戸城の正門だったが、明治になると西の丸大手門(左の門)が皇居の正門となった。手前の西の丸大手橋の袂に高麗門(こうらいもん)があるが、この門は明治21年(1888)、明治宮殿造営...
近年、(財)郡山城史跡・柳沢文庫保存会によ り、旧郡山藩領の地方文書の調査が進められている。その中には、江戸時代から明治初年にかけての平城宮跡に関する資料も含まれている。そこで当研究所の歴史研究室も、...
近世の朝廷が発令した「触穢令」が、伊勢神宮に与えた影響の時期的変化を見ながら、近世の伊勢神宮と朝廷との関係を考察した。「触穢令」は天皇・上皇・女院の死に際して朝廷から出されるものだが、前期には江戸将軍...
本稿では、霊元天皇在位時の奥について、天皇の「母」である東福門院の役割に注目し、幕府の動向にも留意して具体的に検討した。天皇幼年時の奥は、東福門院と三条西実教などが統括する体制であった。皇継をめぐって...
本報告書は、令和2年(2020)10月16日(金)に奈良文化財研究所大会議室において開催した令和2年度奈良文化財研究所遺跡整備・活用研究集会“歴史的脈絡に因む遺跡の活用 ―儀式・行事の再現と地域間交流...
常盤橋の袂である本町河岸から南を写したもの。ここは水の十字路になっていて、左側は写されていないが一石橋(いっこくばし)があり、日本橋川となる水路を跨いでいる。右の堀の切れ目は道三堀で、龍ノ口(内堀で余...
享保10年(1725)頃、八代将軍徳川吉宗が半蔵門北側の吹上御苑一帯に竹を植えたとされる。幕府財政逼迫の際で、実用になる竹が選ばれたという。現在も半蔵門を入ると孟宗竹の林が残されている。昭和天皇は春に...
京都御所御池庭と御常御殿を御池南側の中島に架かる欅橋より北に望む。右方には北側の中島に石橋が架かり、御常御殿前には松や樅が植えられる。御池庭は延宝年間(1673~81)に造られた回遊式の庭園で、御常御...
埼玉県越谷市能楽史における著名な出来事である、寛永十一年(一六三四)九月、後水野尾院仙洞御所で催された所謂仙洞能は、東福門院和子の申沙汰によって開催されたものであることを初めて確認し、その資料として用...
本稿の主目的は、文久期前半における「皇政回復」という概念の実態を解明することにあり、島津久光の率兵上京に至る薩摩藩の動向を明らかにしつつ、封建諸侯、朝廷および西国志士の具体的な建白等の政見を検証するこ...
平城宮第一次大根殿院楼閣の骨格復原については、『平城報告XI』 (奈文研1982) で初めて示され、以後平成5年(1993)、平成13年(2001) に改良案が提示された。いずれも前案の構法的弱点を修...
平城宮第一次大極殿院は、立体感のある地形に特徴がある。だがそれは同時に、旧地形が改変を受けやすいことをも意味、とりわけ創建当初の回廊は遺構の残存状況が悪く、その復原も困難を極める。そのため、これまでに...
西の丸下(現皇居外苑)から写した西の丸大手橋(手前)と西の丸下乗橋(奥の橋)。西の丸下乗橋は、堀が深いため上下二重に架けられた珍しい構造だった。それで二重橋という俗称が生まれた。左の門が西の丸大手門。...
平城宮の東張出し部の入隅に南面して聞く小子門の創建が、従前の理解、つまり神亀年間(724-729)に下るとされていた見解が妥当ではなく、平城宮の造営当初にさかのぼる可能性が高いことが、すでに小澤毅によ...
内堀(二重橋堀)に架かる郭門橋は寛政年間(1789ー1801)頃の架橋といわれている。江戸・明治期には手前が西の丸大手橋で奥が西の丸下乗橋と称されたが、いま宮内庁で使用している名称は写真で手前が「皇居...
江戸期には本丸大手門が江戸城の正門だったが、明治になると西の丸大手門(左の門)が皇居の正門となった。手前の西の丸大手橋の袂に高麗門(こうらいもん)があるが、この門は明治21年(1888)、明治宮殿造営...
近年、(財)郡山城史跡・柳沢文庫保存会によ り、旧郡山藩領の地方文書の調査が進められている。その中には、江戸時代から明治初年にかけての平城宮跡に関する資料も含まれている。そこで当研究所の歴史研究室も、...
近世の朝廷が発令した「触穢令」が、伊勢神宮に与えた影響の時期的変化を見ながら、近世の伊勢神宮と朝廷との関係を考察した。「触穢令」は天皇・上皇・女院の死に際して朝廷から出されるものだが、前期には江戸将軍...
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常盤橋の袂である本町河岸から南を写したもの。ここは水の十字路になっていて、左側は写されていないが一石橋(いっこくばし)があり、日本橋川となる水路を跨いでいる。右の堀の切れ目は道三堀で、龍ノ口(内堀で余...
享保10年(1725)頃、八代将軍徳川吉宗が半蔵門北側の吹上御苑一帯に竹を植えたとされる。幕府財政逼迫の際で、実用になる竹が選ばれたという。現在も半蔵門を入ると孟宗竹の林が残されている。昭和天皇は春に...
京都御所御池庭と御常御殿を御池南側の中島に架かる欅橋より北に望む。右方には北側の中島に石橋が架かり、御常御殿前には松や樅が植えられる。御池庭は延宝年間(1673~81)に造られた回遊式の庭園で、御常御...
埼玉県越谷市能楽史における著名な出来事である、寛永十一年(一六三四)九月、後水野尾院仙洞御所で催された所謂仙洞能は、東福門院和子の申沙汰によって開催されたものであることを初めて確認し、その資料として用...
本稿の主目的は、文久期前半における「皇政回復」という概念の実態を解明することにあり、島津久光の率兵上京に至る薩摩藩の動向を明らかにしつつ、封建諸侯、朝廷および西国志士の具体的な建白等の政見を検証するこ...