正面に見える岩は、硅灰石が露出したもの。境内各所に見られ、石山寺の呼称の由来ともなっている。国指定天然記念物。また、石山寺は、紫式部が「源氏物語」を執筆したところともされ、「源氏の間」がある。The rock to the fore is exposed wollastonite. This can be seen all over the temple compounds, and the name Ishiyamadera (Stone Mountain Temple) originates from this. It is designated as a precious natural asset. Said to be the place where Murasaki Shikibu wrote the "Tale of Genji", the temple has a "Genji Room.
石山寺本堂、蓮如堂を多宝塔南側参道より西に望む。参道には石畳が敷かれ、参道北側に石灯籠が建ち並ぶ。石灯籠の右方には珪灰岩が露出した斜面が見える。本堂は慶長7年(1602)の創建で、総檜皮葺で寄棟造であ...
西国三十三所観音霊場のひとつ。天平5年(733)に行基を導師として本尊の開眼供養をおこなったと伝えられている。仁王門から本堂へと至る登廊の両側に植えられた牡丹の花時には、数多くの花見客が訪れる。One...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
石山寺(いしやまでら)境内で撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。写真では、寺名の由来であるごつごつとした岩山(硅灰...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
長崎にある真言宗清水寺が中央に捕らえられている。本堂右下の石段に沿って民家が並んでいるが、現在は墓地。寺は京都の清水寺を模して創建された。寛文8年(1668)創建。写真は正覚寺墓地から撮影されている。...
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月1...
石山寺(いしやまでら)参道の旅館街。中央の突き出した山が石山寺にあたり、多くの参詣客がこの道を通った。この旅館街は、道の片側にしか建物がないことから、片原町と呼ばれていた。現在の京阪電鉄石山寺駅付近か...
石山寺(いしやまでら)の月見亭あたりから眺める瀬田川の流れ。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。特にこの場所は近江八景(おうみは...
天平宝字3年(759)、数々の苦難をへて来日した唐僧鑑真によって創建された。境内には、金堂、講堂、宝蔵、鼓楼などがある。御影堂内に安置された鑑真座像はとくに有名である。This was built b...
大阪市西区北堀江の和光寺(わこうじ 1698創建)である。境内に阿弥陀池があり、推古天皇8年(600)本田善光(ほんだぜんこう)がこの池で如来像の出現をみて、信濃善光寺の本尊としたという。和光寺の本尊...
中央の五重塔は二代将軍秀忠が祈願で病が平癒したお礼にと寄進し、慶長13年(1608)に棟上式をあげた。慶長19年(1614)に地震で傾いていたので、五代将軍綱吉の命で、元禄14年(1701)に現在の場...
清水寺本堂、阿弥陀堂、奥ノ院を南苑より東に見上げる。左より奥ノ院・阿弥陀堂・本堂が並び、背後に音羽山をいただく。南苑には様々な庭木が植えられているが、庭園としてまだ未整備で、桜や楓が現在のように等間隔...
鹿苑寺金閣を鏡湖池東縁より西北西に望む。左前の島は細川石で、その奥は葦原島である。写真の金閣は応永5年(1398)の創建で、昭和25年(1950)に放火で全焼した。現在と異なり、屋根は各層の外回りに建...
石山寺本堂、蓮如堂を多宝塔南側参道より西に望む。参道には石畳が敷かれ、参道北側に石灯籠が建ち並ぶ。石灯籠の右方には珪灰岩が露出した斜面が見える。本堂は慶長7年(1602)の創建で、総檜皮葺で寄棟造であ...
西国三十三所観音霊場のひとつ。天平5年(733)に行基を導師として本尊の開眼供養をおこなったと伝えられている。仁王門から本堂へと至る登廊の両側に植えられた牡丹の花時には、数多くの花見客が訪れる。One...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...
石山寺(いしやまでら)境内で撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。写真では、寺名の由来であるごつごつとした岩山(硅灰...
六孫王神社唐門を神竜池北東側から東に望む。六孫王神社は元禄15年(1702)遍照心院の南谷上人が徳川家の援助で再興したもので、宝永4年(1707)に竣工した。祭神は源氏の嫡流である六孫王源経基。池を取...
興福寺八角堂(南円堂院)正面図と、その前に佇む人物と鹿。興福寺は天智天皇の時代に藤原鎌足病気平癒を祈って建てられた山階寺に由来するとされる。繰り返し火災等にみまわれたが、現在でも北円堂を初め、国宝指定...
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石山寺(いしやまでら)参道の旅館街。中央の突き出した山が石山寺にあたり、多くの参詣客がこの道を通った。この旅館街は、道の片側にしか建物がないことから、片原町と呼ばれていた。現在の京阪電鉄石山寺駅付近か...
石山寺(いしやまでら)の月見亭あたりから眺める瀬田川の流れ。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。特にこの場所は近江八景(おうみは...
天平宝字3年(759)、数々の苦難をへて来日した唐僧鑑真によって創建された。境内には、金堂、講堂、宝蔵、鼓楼などがある。御影堂内に安置された鑑真座像はとくに有名である。This was built b...
大阪市西区北堀江の和光寺(わこうじ 1698創建)である。境内に阿弥陀池があり、推古天皇8年(600)本田善光(ほんだぜんこう)がこの池で如来像の出現をみて、信濃善光寺の本尊としたという。和光寺の本尊...
中央の五重塔は二代将軍秀忠が祈願で病が平癒したお礼にと寄進し、慶長13年(1608)に棟上式をあげた。慶長19年(1614)に地震で傾いていたので、五代将軍綱吉の命で、元禄14年(1701)に現在の場...
清水寺本堂、阿弥陀堂、奥ノ院を南苑より東に見上げる。左より奥ノ院・阿弥陀堂・本堂が並び、背後に音羽山をいただく。南苑には様々な庭木が植えられているが、庭園としてまだ未整備で、桜や楓が現在のように等間隔...
鹿苑寺金閣を鏡湖池東縁より西北西に望む。左前の島は細川石で、その奥は葦原島である。写真の金閣は応永5年(1398)の創建で、昭和25年(1950)に放火で全焼した。現在と異なり、屋根は各層の外回りに建...
石山寺本堂、蓮如堂を多宝塔南側参道より西に望む。参道には石畳が敷かれ、参道北側に石灯籠が建ち並ぶ。石灯籠の右方には珪灰岩が露出した斜面が見える。本堂は慶長7年(1602)の創建で、総檜皮葺で寄棟造であ...
西国三十三所観音霊場のひとつ。天平5年(733)に行基を導師として本尊の開眼供養をおこなったと伝えられている。仁王門から本堂へと至る登廊の両側に植えられた牡丹の花時には、数多くの花見客が訪れる。One...
天保3年(1832)に竣工した本堂。間口12間奥行15間の木造大建築である。正式名称は寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ)。階段下の灯籠、右手の水屋ともに現存する。左手階段上に七面堂が見える。江...