鶴間村。鶴間村は横浜から12マイル、田名、宮の下、及び大山への途上にあり、近来外国人のハイキング行程の第一休憩地として知られている。The Far East 明治4年(1871)10月4日号。「復刻版The Far East」より引用。Tsuruma village. Tsuruma, a village 12 miles from Yokohama on the way to Tana, Miyanoshita and Oyama, was well known as the first resting point for foreigners on hikes. From The Far East October 4, 1871 edition. From the revived edition of The Far East
金剛寺(紅葉寺)あたりの音無川(石神井川)であろう。川が曲がった所で、橋が架かっていて風情があったそうである。橋の傍らの窟(いわや)の中には弁天が祀ってあった。丘の上には茶店もあったという。音無川はこ...
駿河国駿東郡にあった須走は、駿河から籠坂峠を経て甲斐に抜ける街道の要地であり、富士への登山口の1つでもあった。『幕末日本の風景と人びと』(明石書店、91頁)には、同じ場所の、殆ど同じ時間、同じ角度から...
これと同じ横浜開港資料館所蔵資料から、日下部金兵衛(1841?1934)の撮影と知れる。片瀬からの眺めで、江ノ島正面には宿屋街や漁師町などが写る。また、左の離れ小島は「聖天島(しょうてんじま)」。のち...
金沢への路上の展望。横浜から鎌倉までの風光さぐる遠足から取材した一組の写真である。金沢を遠望したもの。美しい谷戸の彼方に村がある。The Far East 明治4年(1871)7月1日号。A view...
長崎市の市街地を流れる中島川の中流域の中川。河岸が変化に富み、冷泉が湧いていたことから、カルルスと呼ばれ、長崎市の景勝地となった。下流から上流を撮影した手彩色の絵葉書。明治後期頃。5154、5156は...
瀬戸の料亭。平潟湾の眺望にすぐれ、明治以降、多くの文人や政治家たちが利用した。写真は瀬戸橋から撮影したもの。三棟のうち一番左が千代本楼(ちよもとろう)。正面に写る茶屋は扇屋(おうぎや)か村田屋か。Te...
柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。中央を通る田沼街道沿いに小商人・小職人の町屋が並び、川崎湊の発展に伴ってにぎわいを見せたという。この写真は町から外れた、景観の良い街道筋であろう。Kash...
隣接の鳴瀬町の野蒜海岸にある小岩峰で不老山と呼ばれているが、漂砂の堆積と隆起傾向にある地盤変動により、現在は島の全てが完全に陸地化しており、松林の中にある状況である。背後は海水浴場と宮戸島の山並みであ...
腰越。江の島付近の砂浜。鎌倉から江の島にゆく途中の砂浜に沿った村。The Far East 明治4年(1871)11月5日号。「復刻版The Far East」より引用。Koshigoe, a vil...
明治初期の撮影。現在の長崎市の浦上川下流。浦上川の河口は、当時浦上山里村で、浦上川の下流は、梁川と呼ばれていた。写真は、下流から上流を撮影したもの。写真右側は左岸で浦上新田である。左側は右岸で、竹の久...
写真家集「小川一真(1860~1929)」(シート集)所収。彼は忍藩(現埼玉県行田市)生まれの写真家で、後年は写真版印刷業を営んだ。鎌倉に来た時期は不明だが、写された境内の様子から目録番号4674とほ...
横浜からハイキングに行く外国人の行楽地で最も親しみのあるのは金沢である。この景色はここを訪れる人ならどこから撮影したか一見して明らかであろう。The Far East 明治4年(1872)11月21日...
中山道坂本宿、碓氷峠を西へ下った軽井沢から見た浅間山。軽井沢宿は食売などで繁盛していたが、天明3年(1783)の浅間山爆発で大打撃を受けた。また明治に入り碓氷新道が開通するとともに、同村は衰退していく...
相模川のほとり。田名(たな)。大山を頂とする山脈を背景にした大きな川。雪解けや雨期には増水して4~500ヤードの川敷は全て水でおおわれる。The Far East 明治4年(1871)8月2日号。「復...
金剛寺(紅葉寺)あたりの音無川(石神井川)であろう。川が曲がった所で、橋が架かっていて風情があったそうである。橋の傍らの窟(いわや)の中には弁天が祀ってあった。丘の上には茶店もあったという。音無川はこ...
駿河国駿東郡にあった須走は、駿河から籠坂峠を経て甲斐に抜ける街道の要地であり、富士への登山口の1つでもあった。『幕末日本の風景と人びと』(明石書店、91頁)には、同じ場所の、殆ど同じ時間、同じ角度から...
これと同じ横浜開港資料館所蔵資料から、日下部金兵衛(1841?1934)の撮影と知れる。片瀬からの眺めで、江ノ島正面には宿屋街や漁師町などが写る。また、左の離れ小島は「聖天島(しょうてんじま)」。のち...
金沢への路上の展望。横浜から鎌倉までの風光さぐる遠足から取材した一組の写真である。金沢を遠望したもの。美しい谷戸の彼方に村がある。The Far East 明治4年(1871)7月1日号。A view...
長崎市の市街地を流れる中島川の中流域の中川。河岸が変化に富み、冷泉が湧いていたことから、カルルスと呼ばれ、長崎市の景勝地となった。下流から上流を撮影した手彩色の絵葉書。明治後期頃。5154、5156は...
瀬戸の料亭。平潟湾の眺望にすぐれ、明治以降、多くの文人や政治家たちが利用した。写真は瀬戸橋から撮影したもの。三棟のうち一番左が千代本楼(ちよもとろう)。正面に写る茶屋は扇屋(おうぎや)か村田屋か。Te...
柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。中央を通る田沼街道沿いに小商人・小職人の町屋が並び、川崎湊の発展に伴ってにぎわいを見せたという。この写真は町から外れた、景観の良い街道筋であろう。Kash...
隣接の鳴瀬町の野蒜海岸にある小岩峰で不老山と呼ばれているが、漂砂の堆積と隆起傾向にある地盤変動により、現在は島の全てが完全に陸地化しており、松林の中にある状況である。背後は海水浴場と宮戸島の山並みであ...
腰越。江の島付近の砂浜。鎌倉から江の島にゆく途中の砂浜に沿った村。The Far East 明治4年(1871)11月5日号。「復刻版The Far East」より引用。Koshigoe, a vil...
明治初期の撮影。現在の長崎市の浦上川下流。浦上川の河口は、当時浦上山里村で、浦上川の下流は、梁川と呼ばれていた。写真は、下流から上流を撮影したもの。写真右側は左岸で浦上新田である。左側は右岸で、竹の久...
写真家集「小川一真(1860~1929)」(シート集)所収。彼は忍藩(現埼玉県行田市)生まれの写真家で、後年は写真版印刷業を営んだ。鎌倉に来た時期は不明だが、写された境内の様子から目録番号4674とほ...
横浜からハイキングに行く外国人の行楽地で最も親しみのあるのは金沢である。この景色はここを訪れる人ならどこから撮影したか一見して明らかであろう。The Far East 明治4年(1872)11月21日...
中山道坂本宿、碓氷峠を西へ下った軽井沢から見た浅間山。軽井沢宿は食売などで繁盛していたが、天明3年(1783)の浅間山爆発で大打撃を受けた。また明治に入り碓氷新道が開通するとともに、同村は衰退していく...
相模川のほとり。田名(たな)。大山を頂とする山脈を背景にした大きな川。雪解けや雨期には増水して4~500ヤードの川敷は全て水でおおわれる。The Far East 明治4年(1871)8月2日号。「復...
金剛寺(紅葉寺)あたりの音無川(石神井川)であろう。川が曲がった所で、橋が架かっていて風情があったそうである。橋の傍らの窟(いわや)の中には弁天が祀ってあった。丘の上には茶店もあったという。音無川はこ...
駿河国駿東郡にあった須走は、駿河から籠坂峠を経て甲斐に抜ける街道の要地であり、富士への登山口の1つでもあった。『幕末日本の風景と人びと』(明石書店、91頁)には、同じ場所の、殆ど同じ時間、同じ角度から...
これと同じ横浜開港資料館所蔵資料から、日下部金兵衛(1841?1934)の撮影と知れる。片瀬からの眺めで、江ノ島正面には宿屋街や漁師町などが写る。また、左の離れ小島は「聖天島(しょうてんじま)」。のち...