application/pdf中世後期において宇佐宮と大内氏は、相互利益と相互補完という蜜月の関係を築いてきた。それは、大内義弘が豊前支配に乗り出した応永期から大友氏に豊前支配を許す天文期までの約百数十年間と長きに渡るものであった。そこで応仁の乱前後に区切りをつけて、その動向を追ったが、応仁の乱以前では宇佐宮はそれまで怠っていた造営と祭礼執行を果たすという課題を負っており、大内氏の登場によりそれらは解消するに至った。そして大内氏は豊前支配に対して宇佐宮の荘園体制に依拠した掌握を進めていた。この段階では、お互いに為すべき目標があったので、それほど大きな問題も無く、相互に成熟期を迎えることができたのであるが、その成熟期を過ぎる応仁の乱以後では、惰性的な関係が継続されていくことになる。大内氏はそれまでの保護政策を継承しつつも、宇佐宮に対して課役していくという動きを見せ始める。しかし、宇佐宮はこれまでの関係を継続すべきが如く、「愁訴」「先例」「社例」を用いることで既得権益を維持していこうとしたのである。そういう意味では応仁の乱前の宇佐宮は、造営や祭礼復興、そして神威向上など積極的な「主体性」を見せていたのであるが、それがある程度達成された時には次第に「主体性」を欠く慢性的なものとなった部分もあるのではないだろうか。大内氏も、目まぐるしく変化を遂げる乱世において、そういった停滞した関係からの脱却を望まなければならなかったであろうが、宇佐宮の荘園体制に立脚する支配体制を取り込んでいる状況では儘ならないものであっただろう。こうした矛盾からも、次第に相互の信頼関係を希薄にしていく様子が見え隠れするようになったと考える。先例及び社例を重んじ造営や祭祀を執り行う神社にとって、それらが緩怠すること...