application/pdf本稿は,柳田國男が大正9年の暮れから大正10年の3月にかけておこなった南島紀行の成果である『海南小記』ならびに『炭焼小五郎が事』において,沖縄の職人文化の伝承をどのように理解したかを「鉄器加工」をめぐって検討しようと試みたものである。柳田はここですでに鉄器文化の南下説を示しており,それに随伴した口承文芸として炭焼小五郎を位置づけたのであるが,その根拠となった沖縄の「カンジャー小屋」や「旅の鋳物師」に対する理解は,本土のさまざまの伝承によって説明されているにもかかわらず,あるいは,であるから故に,必ずしも当時の沖縄の金属加工文化の実態を反映したものではなかった。ここに早くも柳田の南島観を伺うことができる。 沖縄本島における鍛冶職人組織は,ある時期から町の職人組織として那覇に形成されて,かれらが鍬先の新品供給に従事したが,一方,村々には「カンジャーヤー(鍛冶小屋)」が設けられて「羽地仕置」以来の在村鍛冶役が直し仕事に従事してきた。この制度的な区分が,町職人と在村鍛冶役を分断して,新品製作と再生修理のあいだに技術的な不連続を生み出し,独特の鍬の使い卸しの慣行を生み出していた。 一方,先島においては,町の形成がおこなわれなかったから,古い時代から継承する所遣座の鍛冶職人が新品製作に従事し,直し仕事に関してのみ,沖縄本島と同様の方法が採られてきたのである。しかし,この所遣座における新品製作は「与世山親方八重山規模帳」によって停止されて,以後は在村鍛冶役に委ねられ,おそらく,ほとんど鍬・This report attempts to look at how YANAGITA Kunio understood the Okinawan traditional ...