「古都」の物語序盤、嵯峨の尼寺に父を訪ねた千重子の歩く、仇野念仏寺から二尊院を経て野々宮神社へと行き着く道筋は、無縁・厭世に支配される磁場から、共存・協力を暗示する土地を経て最後に「縁結び」の地に行き着く、という象徴的意味をもっていた。同時にこの道筋は、秀男と苗子の接近が、龍助と千重子の共存・協力関係に影響を与えていくという「古都」のプロットをなぞるものでもある。これらの主要人物を、京都の四方を守る四神との対応関係を通して見ればそれがわかる。「古都」は捨て子であった千重子が、理想的な四神相応の地に重ねられるような縁、人間関係を得て、本来の生命力を回復してゆく物語なのだ
戦後の京都市上京区五番町と京都府与謝郡を舞台に、「赤線」で働く「接客婦」の夕子と彼女のもとに通う吃音の僧、櫟田正順を描いた水上勉の小説「五番町夕霧楼」について、五番町と夕子の生まれた与謝郡「樽泊」の空...
「真言七祖像」は真言宗七祖の肖像画で、各縦約二一三センチメートル、横約一五一センチメートルの絹本着色である。七幅のうち、金剛智・不空・善無畏・一行・恵果の五祖像は唐において八〇五年頃制作され、空海によ...
石田心学の祖石田梅岩は江戸中期の儒者であるが、いずれかの学派に属して教えを乞い、系統的に学問を研鑚したことのない、所謂学究型の学者ではなく、人の心に限りない重きと可能性を置き、心を律することをもって人...
「古都」の物語序盤、嵯峨の尼寺に父を訪ねた千重子の歩く、仇野念仏寺から二尊院を経て野々宮神社へと行き着く道筋は、無縁・厭世に支配される磁場から、共存・協力を暗示する土地を経て最後に「縁結び」の地に行き...
「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕のしたを水のながるる」をはじめ、吉井勇の『酒ほがひ』の「祗園冊子」の章に収録された「祗園もの」とも言うべき一連の作品は吉井勇の生涯を通じた代表作となったものだが、こ...
publisher奈良小稿は、近世京都における寺院について、名所案内記を分析対象として、「場」という視角から名所と寺院との関係を考察したものである。京都における寺院は、同時期において名所とされた場所が...
岡本かの子が、生涯に国内外の各地を旅行したことは、全集の年譜によって知られるが、今回それらに記載されていない多くの事実を調査し得た。とりわけ日本文化の集積地〈京都〉、その伝統的な景観美に対し、かの子は...
夏目漱石『京に着ける夕』(明治四〇年四月)は、漱石が朝日新聞に入社し、職業作家として最初に書いた小品である。これまでの研究史では、「随筆」として漱石の実体験と連動するかたちでの論及が主であったが、本論...
publisher奈良明和から寛政にかけて蕪村・嘯山ら京の宗匠が月並発句合を催していたことは以前に述べたが、それと並行してこの時期に上方一円で盛んに行なわれたものに不定期の発句合がある。この不定期の発...
京都の市民のあいだに文学意識の高まりが認められるのは大正期に入ってからである。一九一八(大正七)年に初めて同人詩誌の創刊が見られ、一九二〇年には句詩『鹿笛』と『京鹿子』が相次いで創刊される。両誌とも高...
戦後の京都市上京区五番町と京都府与謝郡を舞台に、「赤線」で働く「接客婦」の夕子と彼女のもとに通う吃音の僧、櫟田正順を描いた水上勉の小説「五番町夕霧楼」について、五番町と夕子の生まれた与謝郡「樽泊」の空...
「真言七祖像」は真言宗七祖の肖像画で、各縦約二一三センチメートル、横約一五一センチメートルの絹本着色である。七幅のうち、金剛智・不空・善無畏・一行・恵果の五祖像は唐において八〇五年頃制作され、空海によ...
石田心学の祖石田梅岩は江戸中期の儒者であるが、いずれかの学派に属して教えを乞い、系統的に学問を研鑚したことのない、所謂学究型の学者ではなく、人の心に限りない重きと可能性を置き、心を律することをもって人...
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「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕のしたを水のながるる」をはじめ、吉井勇の『酒ほがひ』の「祗園冊子」の章に収録された「祗園もの」とも言うべき一連の作品は吉井勇の生涯を通じた代表作となったものだが、こ...
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「真言七祖像」は真言宗七祖の肖像画で、各縦約二一三センチメートル、横約一五一センチメートルの絹本着色である。七幅のうち、金剛智・不空・善無畏・一行・恵果の五祖像は唐において八〇五年頃制作され、空海によ...
石田心学の祖石田梅岩は江戸中期の儒者であるが、いずれかの学派に属して教えを乞い、系統的に学問を研鑚したことのない、所謂学究型の学者ではなく、人の心に限りない重きと可能性を置き、心を律することをもって人...