わが国の陰陽道は平安時代において公家貴族専制下、大いに繁栄し、その日本化をもほぼなしとげたが、それによって公家の文化、公家の教養の重要な部分をも形成したのである。かくて陰陽道は公家の独占物の如く速断され易いが、鎌倉時代に入り武家政権樹立されるや、陰陽道は武家社会にも滲透し、ここに武家故実としてのいわゆる関東陰陽道が形成されていった。それは陰陽道が一般民衆に、より一層接近しゆく一つの過程として捉えらるべく、幕府の公家化として単純に片付けるべきでない。一方公家社会の行きづまりによって陰陽道界では次第にその庇護者としての朝廷を離れ、鎌倉に下り幕府の御用陰陽師として進出するもの少なからず、その中心となるのは安倍氏であった。後世、安倍 (土御門) 氏が陰陽道界の主導権を握るに至る素因はこのときにあったのである。これらの事情を吾妻鏡を中心として考察したのが本稿である。Ommyôdo 陰陽道 in our country was very prosperous under the autocracy of Kuge 公家-nobility in the Heian era and its Japanization was almost accomplished, by which the important part of culture and education of Kuge was also built up; being thought to be a monopoly of Kuge, it penetrated into the Buke class and formed the so-called Kanto-Ommyôdô 関東陰陽道 as the Buke-Kojits...