いわゆる「地下運動」時代におけるロラード運動の具体相をとらえ、その説く教説がいかに民衆にアピールしえたかを明らかにするとともに、これに対決したピーコックの反論の内容をその主著『僧侶を余りにも批難しすぎざること』の分析によって究明し、この一五世紀中葉における宗教論争を通じて、当時の社会不満の表明と、これに対応する支配階級の動向の一端にふれる。ピーコックは当時の支配階級たるランカスター政権の代弁者としてロラード派教説に対決するのではあるが、もはや伝統的なカトリックの立場からはこれを批判しえず、新らたに彼独自の「理性の判断・自然の法」を聖書に優越させることによってロラード派を説得するほかなく、ここに彼がかえって異端として審問されねばならぬ根拠があつた。この彼の悲劇こそは、当時の社会の相剋を反映せるものであり、彼はいわばそれに殉じた人であったといえよう。This article explains the then expression of social discontent and a corresponding trend of the ruling class, through the religious controversy in the middle fifteenth century, by taking the concrete aspects of the Lollards movement in the so-called "underground movement" period, explaining how their teaching appealed to common people, and examining the Peacock's object...
個人情報保護のため削除部分あり畿内に所在する大型古墳の編年私案にもとづいて、古墳時代前期の畿内に政治上の結合体が存在したことを想定し、これを前期畿内政権として把握した。そうして、大和東部勢力を盟主とす...
平安前期、十世紀中葉にいたって東国の地に反乱が起る。平将門によるものがそれである。この乱がその後の政治過程に与えた影響は決定的とも思われ、「律令国家」の崩壊、武士の発生などの観点から、いままでも分析が...
個人情報保護のため削除部分あり一六世紀から一七世紀半ばにかけてポーランドは「異端者の避難所」となった。西欧では生存を認められない急進的宗派をも含む多様な宗派の平和共存が可能となったのは、なぜか。本稿で...
論文(Article)本小論ではパウロが性的不品行を忌避する理由について二つの論点から考察する。一つは性的不品行が強い汚染力を持っているということ。この理解は旧約聖書(特に祭司文書や神聖法集)や第二神...
かねてエルトンは「テューダー革命」論を発表したが、ここ二・三年間にハリスとウィリアムズによる批判、エルトンの反論、さらにハリスとウィリアムズの再批判が活発に展開されて来た。イギリス絶対主義はたんなる封...
イギリス宗教改革の本質は、イギリスにおける教会がローマの支配下から独立したということ、すなわち「イングランド国教会」の成立という点にある。本来ローマ教会に対し忠実であつたヘンリー八世が、このような革命...
[[abstract]]明末,天主教文化隨著歐洲國家的海權擴張而東漸,利馬竇、艾儒略等耶穌會士,即積極在中國士紳間傳教。除了徐光啟、李之藻和楊廷筠被稱作「天主教三大柱石」之外,目前學界和教會中人,亦多...
個人情報保護のため削除部分ありオクタウィアヌス・アウグストゥスによって創始されたローマの元首政は、所謂五賢帝時代を迎えるまで様々な反対行為や陰謀に悩まされて安定しなかったが、とくに、紀元一世紀後半には...
一八世紀末葉の「急進主義運動」は、一七世紀の革命において充分な解決をみないまま引き継がれ、しだいにその矛盾を深めていった政治機構に対する少数の知的エリートを申心にした反撃であった。この反体制運動の一翼...
一九世紀後半、イングランド国教会はその存在価値を厳しく問われていた。この問いに対して国教会の聖職者が出したひとつの答えは「キリスト教社会主義」であった。教会の社会問題に対する積極的介入を主張するこの理...
竹内愛二がその代表的な著書『ケース・ウォークの理論と実際』を出版した1938年は、近衛文麿内閣が「東亜新秩序声明」を出した年であり、『社会的基督教』誌上において「東亜協同体論」が中島重をはじめ会員諸氏...
イギリス一九世紀の歴史は産業革命という新しい歴史構成力を基軸に考えられるのが普通である。その世紀は産業革命の担い手たるプルジョワジーの世紀であり、自由主義の世紀であると一般に見做されている。勿論その評...
個人情報保護のため削除部分あり南宋社倉制度についての従来の一般的イメージは、地主の郷村支配・宋代郷村の自律性といった文脈から形成されてきた。本稿は、公権力についての評価を考察の軸に加えることによって、...
南方熊楠(1867-1941)は長年に亘るアメリカとイギリスにおける海外遊学の経験を持つ民俗学者・生物学者である。本論は南方の宗教観を取り上げるが、このテーマについてはすでに多くの人が論じてきた。これ...
「王法と仏法」という中世日本の正統的な秩序観にたいして、新たに登場する「人法興隆」「人法繁昌」といった「人法」概念は、体制の変容を物語るものとして鎌倉末南北朝の時代を語る際に注目されてきた。このような...
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