筆者は十五年間、ドラヴィダ語学を学んできた。そこでドラヴィダ言語学の立場から、大野説を検討した結果、次のような問題点が明らかとなった。(1) 大野氏は、日本の文化の歴史を明らかにする手段として、日本語と他の言語の系統関係を証明することが重要である、という認識で論を展開しているが、比較言語学の立場からいえば、言語史の解明に「文化」を持ち込むのはルール違反である。したがって、大野説を言語学の問題として取り上げるのには躊躇される部分がある。また、比較の対象として、ドラヴィダ語を取り上げるのではなく、タミル語だけを取り上げるのも比較言語学の常識からは逸脱している。(2) 具体的な問題では、まず大野説の音対応から想定される音変化はドラヴィダ語史からうまく説明されないケースがある。また文法についても、日本語の格助詞とドラヴィダ語の各接尾辞はそれぞれの言語の語構成が異なるために簡単には比較できないし、その音形の対応を比べることは意味を持たない。そして、助動詞についても、日本語とドラヴィダ語の自動詞と他動詞の派生には重なりがあるが対応しているとはいえない。(3) 最後に構文の対応をみると、タミル語のumの用法と日本語「も」のそれとの対応は真剣な検討に値する。ただし、すでにエメノー教授がこのumとサンスクリットのapiとの用法を比較し、これらの小辞の用法が、比較的容易に借用されうることを指摘しているので、umと「も」の対応から直ちに同系説を支持できない。また、大野氏の指摘する「係り結びの法則」の対応は興味深いが、それを同系の根拠とするには他の言語との比較を待たねばならない。 大野説の検討を終え、今後の研究課題をあげておく。それは日本語のアクセントがどのように発生したかを説明することである。ア...