天正十三年(一五八五) 冬、羽柴(豊臣) 秀吉は島津義久に対し、九州における戦闘停止を命じたが、この出来事は秀吉の全国統一過程、すなわち戦国争乱の最終過程を論じる際に注目され、「平和」の実現を狙った政策か否かは今日重要な論点となっている。本稿は、天正十四年七月の対島津戦開戦以前の政治過程を復元し直すことで、上記の九州停戦命令を再考しようとしたものであり、(1)停戦命令は九州派兵が困難な情勢下で採られた方策で、「和戦」双方を視野に入れていた。そして畿内近国・東国・西国の情勢に規定されながら、ある時期は「和」の比重が、また、ある時期は「戦」の比重が高まり、遂には対島津戦突入へと至った。(2)「平和」の実現という切り口から、停戦命令を惣無事令として捉える学説には賛成できない。(3)島津攻めが既定方針であったことを強調する学説は、九州政策の変遷を踏まえた主張とは言い難い点などを主張している。Hashiba (Toyotomi) Hideyoshi ordered a ceasefire with Shimazu Yoshihisa to end the fighting in Kyushu in Tensho 13 (1585), but this event has been a point of contention in historical studies of the process of Hideyoshi's unification of the nation, i.e. the cessation of the conflicts of the Warring States period, and whether the aim of the policy was t...
個人情報保護のため削除部分あり本稿の目的は、ビッドル来航時の日本側の対応、およびその後の洋式軍艦導入問題を分析することにより、弘化・嘉永期の海防政策とビッドル来航の意味を問うことにある。そのビッドルは...
個人情報保護のため削除部分あり大隈条約改正交渉の収拾策としての明治二二年一二月一○日付閣議決定は、井上毅法制局長・伊東枢密院書記官長らの批准拒絶方針と、井上馨農商相・青木外相代理らの修正要求提起方針と...
「大日本国憲法」は、国会期成同盟第二回大会前に作成された数少ない私擬憲法案であるが、関係史料が限られていて、作成者の確定、作成の経緯など、基本的な点がはっきりしていなかった。ところが稲葉家文書から発見...
藤木久志氏が一九七八年に提起した「惣無事令」論を、「令」の性格に注目し、その存立の正否について論じた。まず氏の「惣無事令」論とその後の研究史を位置づけたうえで、氏が「惣無事令」を最初に見いだした一二月...
本稿の目的は、天正十年(一五八二) 六月から同十二年七月までの間の羽柴秀吉と徳川家康の関係に留意する形で、秀吉の東国政策の内容や、それを規定した背景を明らかにしようとすることにある。 検討の結果、(1...
本稿は、足利尊氏・直義・義詮の文書発給以外の活動を「平時」と「非常時」「重大事」で対比して分析することで、初期室町幕府の政治体制を解明した。その結果、「尊氏は平時においては政務を三条殿直義次いで鎌倉殿...
太平洋戦争勃発によって、上海は全面的に日本軍の支配下に入った。柯霊はあえてここに止まり、演劇活動や雑誌の編集活動に携わりながら、抗日的姿勢を崩さなかった。そのために抗日戦勝利までに2度、日本の憲兵隊に...
application/pdf日本では戦後長らく、憲法9条の要請として、軍事力の行使は、自衛権行使の三要件を遵守してなされなければならないものとされ、とりわけその第三要件である「必要最小限度の実力行使...
個人情報保護のため削除部分あり第一回日英同盟協約の締結をきっかけに、日清戦後の大陸政策構想は北守南進論から満韓不可分論へと変化していった。その際、「満韓不可分」と大陸攻勢作戦主義とは表裏一体の関係にあ...
戦後日本において、核エネルギーを主要なモチーフとして取り上げ続けたジャンルに特撮映画がある。大衆文化における核イメージについての研究は、一九六〇年代に入ると、放射線被害が描かれなくなるなどの「核のファ...
個人情報保護のため削除部分ありソ連は日本に対し、満州事変をはさんで二〇年代後半から、三〇年代はじめにかけて数度にわたり、不可侵条約の締結を提案した。他国と不可侵条約、中立条約を締結していくというのが、...
publisher奈良近代日本における地方自治の出発点は、明治二十二年(一八八九)の市町村制実施であった。この市町村制は、市町村段階における自治を保証したことによって、近代日本の発展に大きく寄与したが...
P(論文)第2次世界大戦終結直後の『朝日新聞』は,対日講和後における日本の安全保障方式として,米ソ両国により安全を保障された「非武装中立」案を理想として掲げた。しかし米ソ冷戦の顕在化に伴い,米国政府は...
個人情報保護のため削除部分あり本稿は、近世から近代への転換期である幕末期における日本の対朝鮮外交を検討する試みで、幕府の朝鮮政策の展開過程とその性格、機構上の改編の変化に重点をおいた。まず、政策の面で...
義和団事件いご日露戦争まで満洲の門戸開放をもっとも強硬に主張し、これによって米英と協力する立場にあった日本は、第二次桂内閣のもとで、実質的にそれを蹂躪する政策をとるようになる。その最初のあらわれは、一...
個人情報保護のため削除部分あり本稿の目的は、ビッドル来航時の日本側の対応、およびその後の洋式軍艦導入問題を分析することにより、弘化・嘉永期の海防政策とビッドル来航の意味を問うことにある。そのビッドルは...
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「大日本国憲法」は、国会期成同盟第二回大会前に作成された数少ない私擬憲法案であるが、関係史料が限られていて、作成者の確定、作成の経緯など、基本的な点がはっきりしていなかった。ところが稲葉家文書から発見...
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個人情報保護のため削除部分あり大隈条約改正交渉の収拾策としての明治二二年一二月一○日付閣議決定は、井上毅法制局長・伊東枢密院書記官長らの批准拒絶方針と、井上馨農商相・青木外相代理らの修正要求提起方針と...
「大日本国憲法」は、国会期成同盟第二回大会前に作成された数少ない私擬憲法案であるが、関係史料が限られていて、作成者の確定、作成の経緯など、基本的な点がはっきりしていなかった。ところが稲葉家文書から発見...