個人情報保護のため削除部分あり西暦一二六二年、モンゴル帝国にクビライ政権が出現した直後におこった李璮の乱については、従来からそれなりに、政治的意義が重視されてきた。これを契機に漢人軍閥が廃止され、彼らによる間接支配であったモンゴルの中国統治が、中国的な中央集権に転換すると考えられたためである。しかし、実はそうしたイメージほど事実は単純でなく、根本からの見直しが必要である。本稿では、済南張氏の事例を通して、この反乱後に漢人軍閥が本当にどうなったのか、クビライ政権の中国統治体制は変化したのかどうかを集中検証した。統治体制の変化は認められる一方で、済南に権益を持つカチウン王家との、張氏のモンゴル帰順以来の関係は実は変化しなかった。また、注目すべきことに、張氏の「モンゴル化」や南宋併合以後のモンゴル政権のモンゴリア、華北、江南にまたがる支配構造が読み取れるのである。クビライ政権は中央集権化の一方で、華北、江南におけるモンゴル諸王の権益を維持、拡大したことが確認される。クビライ政権の中国支配は、チンギス・カン以来のモンゴルの一族分封の原理に基づく部分と中華的集権国家という二重の構造を持っていたと言える。クビライ政権はこの新しい形態の国家を作り上げた点で、モンゴル帝国史の中で一時代を画するものであった。Until now, it has been generally assumed that in the aftermath of the Li Tan rebellion, the Yuan dynasty abandoned its policy of indirectly governing China through Han Chinese warlords in favor of...