本研究は、宮澤賢治を天才ないしは病人ととらえないで、健常人の枠内において位置づけ解釈する試みであった。その結果、賢治が心象スケッチ「春と修羅」に事実として記録した自らの感性的違和感は、人格(パーソン)の創造過程における新たな経験、未知の経験の証であると理解された。賢治が詩ではなく心象スケッチと認識していた「春と修羅」は、自我に同化し得ない(超越する)他者による幻想する自己に対する自己否定をてことした、人格すなわち内的基準を獲得するに至ったパーソン(トワイス・ボーン・パーソン)の誕生の記録ではなかったのか。この自己否定の過程において、物理学の法則の支配する実在の現象世界から起つことを決意した賢治がそこから受けとった真実の言葉(「まことのことば」)は、普遍的な非個人的な科学法則ではなかった。それは「善逝(スガタ)から来てそしてスガタに至る」徳性により螺旋的回転を続けて止まない陰陽の原則であった。賢治は、この継起する螺旋的回転体を「そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源萬象同帰のそのいみじい生物」と表明した。それは、自ら表現する「他者の顔」が発し、対話を介して受けとられる個人的な真実(「まことのことば」)が現象世界に存在するとの確信の証であった。賢治の心象スケッチ「春と修羅」は、普遍的な科学の法則に基づいた非個人的な真実の言葉を知った近代人が、現象世界から出発して、非個人的科学的法則ではなく、それとは別次元の個人的真実を把握する伝統的な直観の精神の創造過程を示している