明治初期(1875)頃の中島中流域と上野彦馬邸。日本写真の元祖、上野彦馬の自宅は新大工町の中島川沿いにあった。明治の頃の中島川の美しい風景が撮影されている。写真左の人物が立っている家が上野彦馬の邸宅である。The residence of Ueno Hikoma, Japan's first professional photographer, around 1875. The Ueno residence faced Nakashima River at Shindaiku-machi. This photograph captures the beautiful scenery of the river in the mid-Meiji Period. People are standing in front of the Ueno residence to the left
In October 1862, a few months prior to Felice Beato's arrival in Yokohama, Ueno Hikoma, a mere 25 ye...
玄宮園(げんきゅうえん)は、彦根城の北三の丸にある井伊家旧下屋敷の庭園。四代藩主・直興(なおおき)が、延宝7年(1679)に完成させた。名前は、中国唐代の玄宗皇帝の離宮から取ったものである。池を取り巻...
中島川上流の蛍茶屋に架かる石橋、一の瀬橋をベアトが撮影したものである。左手の建物は茶屋。旅人はこの茶屋で休憩したのち後、日見峠に向けて左折して長崎街道へと向かった。この橋の写真としては最古のものである...
上流に向けて上野彦馬邸周辺の中島川を写している。ベアトが同じアングルで撮影した写真がある。(整理番号28-33)。左手奥の白壁の家が彦馬邸である。The Nakashima River near th...
1864年頃ベアトが撮影した中島川上流の風景。上野彦馬邸の前あたりから対岸を撮影したものである。このときベアトは彦馬宅に滞在したものと推測される。右側に写っている男性は魚釣りをしている。整理番号28-...
手前に阿弥陀橋、奥に高麗橋が写っている。上流から下流に向かって撮影されている。近くには上野彦馬邸があった。Amida Bridge and behind it Korai Bridge. The pi...
床の間に軸が掛かり、大きな壺が置かれている。大正11年(1922)年、大隈重信が没すると、遺志によって早稲田大学に庭園とこの屋敷が寄贈された。大隈庭園は約1万坪あり、屋敷は大隈会館のある辺りに建ってい...
1864年頃、ベアトが撮影した高麗橋と八幡橋の写真。この上流左手が上野彦馬の邸宅になる。右手の白い蔵は画家木下逸雲の屋敷。逸雲は彦馬が日田の広瀬淡窓の門に入る時の保証人でもあった。整理番号28-29と...
伊勢町の長崎聖堂の前辺りからのアングル。上流に向けて撮影している。近くには上野彦馬の邸宅があった。変わった形のこの石灯籠は現存しない。中島川と西山川との合流地点に同じような石灯籠が置いてある。An a...
木曽川を背景として、小野村の集落の一部をなす家屋が写されている。軒下には、荷物を担いでいるとおぼしき2人の人影も見える。小野村は当初中山道の宿場であったが、後に道筋が変更されたため、諏訪・木曽への近道...
明治後期から大正期(1890~1920)の手彩色の絵葉書。東山手居留地南端の高台から、大浦川右岸の大浦居留地と左岸の下がり松居留地を見たもの。下がり松地区には洋館が整然並び、上流には日本家屋が入り込ん...
高島町遊郭の神風楼。「ネキタリン・ナンバー・ナイン」と呼ばれ、世界的に知られた。港崎郭にあった初代の伊勢楼から数えて三度の移転を経るが、写真は高島町2丁目にあった頃の三代目。明治4年(1871)から同...
写真上部の建物は現在の富貴楼にあたる。現在は西山川と称されているこの川の周辺はこの写真の景観とは非常に異なっている。背後に写っている山は金比羅山である。The building in the uppe...
元町百段上からの景。手前は元町の家並み、堀川の向こうが山下居留地。右端に増徳院、その左遠方にグランド・ホテル新館(明治20年竣工)が見える。元町百段上からは、幕末以来しばしばパノラマ写真が撮影されてお...
中島川は馬町近くで一の瀬川(本流)と堂門川(西山川)に分かれる。川の分岐点から上流に高麗橋、阿弥陀橋がある。写真は中島川に架かる阿弥陀橋で、明治20年代後半(1895頃)の撮影。向かって右岸の建物に「...
In October 1862, a few months prior to Felice Beato's arrival in Yokohama, Ueno Hikoma, a mere 25 ye...
玄宮園(げんきゅうえん)は、彦根城の北三の丸にある井伊家旧下屋敷の庭園。四代藩主・直興(なおおき)が、延宝7年(1679)に完成させた。名前は、中国唐代の玄宗皇帝の離宮から取ったものである。池を取り巻...
中島川上流の蛍茶屋に架かる石橋、一の瀬橋をベアトが撮影したものである。左手の建物は茶屋。旅人はこの茶屋で休憩したのち後、日見峠に向けて左折して長崎街道へと向かった。この橋の写真としては最古のものである...
上流に向けて上野彦馬邸周辺の中島川を写している。ベアトが同じアングルで撮影した写真がある。(整理番号28-33)。左手奥の白壁の家が彦馬邸である。The Nakashima River near th...
1864年頃ベアトが撮影した中島川上流の風景。上野彦馬邸の前あたりから対岸を撮影したものである。このときベアトは彦馬宅に滞在したものと推測される。右側に写っている男性は魚釣りをしている。整理番号28-...
手前に阿弥陀橋、奥に高麗橋が写っている。上流から下流に向かって撮影されている。近くには上野彦馬邸があった。Amida Bridge and behind it Korai Bridge. The pi...
床の間に軸が掛かり、大きな壺が置かれている。大正11年(1922)年、大隈重信が没すると、遺志によって早稲田大学に庭園とこの屋敷が寄贈された。大隈庭園は約1万坪あり、屋敷は大隈会館のある辺りに建ってい...
1864年頃、ベアトが撮影した高麗橋と八幡橋の写真。この上流左手が上野彦馬の邸宅になる。右手の白い蔵は画家木下逸雲の屋敷。逸雲は彦馬が日田の広瀬淡窓の門に入る時の保証人でもあった。整理番号28-29と...
伊勢町の長崎聖堂の前辺りからのアングル。上流に向けて撮影している。近くには上野彦馬の邸宅があった。変わった形のこの石灯籠は現存しない。中島川と西山川との合流地点に同じような石灯籠が置いてある。An a...
木曽川を背景として、小野村の集落の一部をなす家屋が写されている。軒下には、荷物を担いでいるとおぼしき2人の人影も見える。小野村は当初中山道の宿場であったが、後に道筋が変更されたため、諏訪・木曽への近道...
明治後期から大正期(1890~1920)の手彩色の絵葉書。東山手居留地南端の高台から、大浦川右岸の大浦居留地と左岸の下がり松居留地を見たもの。下がり松地区には洋館が整然並び、上流には日本家屋が入り込ん...
高島町遊郭の神風楼。「ネキタリン・ナンバー・ナイン」と呼ばれ、世界的に知られた。港崎郭にあった初代の伊勢楼から数えて三度の移転を経るが、写真は高島町2丁目にあった頃の三代目。明治4年(1871)から同...
写真上部の建物は現在の富貴楼にあたる。現在は西山川と称されているこの川の周辺はこの写真の景観とは非常に異なっている。背後に写っている山は金比羅山である。The building in the uppe...
元町百段上からの景。手前は元町の家並み、堀川の向こうが山下居留地。右端に増徳院、その左遠方にグランド・ホテル新館(明治20年竣工)が見える。元町百段上からは、幕末以来しばしばパノラマ写真が撮影されてお...
中島川は馬町近くで一の瀬川(本流)と堂門川(西山川)に分かれる。川の分岐点から上流に高麗橋、阿弥陀橋がある。写真は中島川に架かる阿弥陀橋で、明治20年代後半(1895頃)の撮影。向かって右岸の建物に「...
In October 1862, a few months prior to Felice Beato's arrival in Yokohama, Ueno Hikoma, a mere 25 ye...
玄宮園(げんきゅうえん)は、彦根城の北三の丸にある井伊家旧下屋敷の庭園。四代藩主・直興(なおおき)が、延宝7年(1679)に完成させた。名前は、中国唐代の玄宗皇帝の離宮から取ったものである。池を取り巻...
中島川上流の蛍茶屋に架かる石橋、一の瀬橋をベアトが撮影したものである。左手の建物は茶屋。旅人はこの茶屋で休憩したのち後、日見峠に向けて左折して長崎街道へと向かった。この橋の写真としては最古のものである...