上宮楼門の扁額(へんがく)には「八幡宮寺」と記されている。幕末まで鶴岡八幡宮は神仏習合(しんぶつしゅうごう)の寺院で、慶応4年(1868)のいわゆる「神仏分離令」で廃寺となった。写真は排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で諸堂が取払われ、社殿のみとなる直前の時期のものと思われる。The words "Hachimangu-ji" (Hachiman Shrine Temple) are inscribed on the tablet at the Jogu Romon (upper shrine gate). Tsurugaoka-Hachiman Shrine was a combination Shinto shrine and Buddhist temple until the end of the Edo period in 1868, when the temple was abolished in response to a government edict. This photograph was probably taken just before the temple buildings were removed
茨城県旭村の玉沢稲荷神社前の石段下で、家族4人が並んで記念撮影をする。同社は、陸奥の安倍氏の反乱を平定した源頼義・義家の父子が、康平6年(1063)に鎌倉権太夫景道に命じ、父子が平定に向かう際に戦勝祈...
円覚寺総門か。円覚寺総門には後光厳天皇の宸筆「瑞鹿山」の額が掲げられており、右の奥の方に「般若水」と呼ばれる泉水があり、鎌倉五名水の一つである。その名の由来は、かつて出雲藩主松平不昧が参詣したとき、こ...
東海道線の西の起点、神戸駅付近から、北の湊川神社正門を眺めた風景。現中央区。明治中期の撮影だろう。右に見える演劇場は、明治23年 (1890) に大改築された大黒座。入口には目新しい電灯が設置されてい...
上宮楼門(じょうぐうろうもん)には扁額(へんがく)がない。また、神楽殿(かぐらでん)の正面には石段がのこるが、側面の「しとみ」と、屋根正面の唐破風(からはふ)上の棟(むね)がはずされている。排仏毀釈で...
若宮の屋根に掛かる梯子は防火用か。隣は神楽殿(かぐらでん)の屋根であるが、やや傷んでいる。このような状態の神楽殿は、諸堂解体直後の境内の姿とされる『ザ・ファー・イースト』1871年9月1日号(旧暦明治...
楼門(ろうもん)の向うにあるのは六角堂(ろっかくどう)。楼門の前には銅造灯籠と石灯籠が数基あるが、六角堂や銅造灯籠などは明治初年の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で除却された。なお、横浜開港資料館にベアト...
上宮廻廊(かいろう)内側の景。廻廊は文政11年(1828)の再建で、現重要文化財。軒下には優美な文様が描かれるが、この建物は昭和初期に修理されており、江戸期以来の文様を知る上で貴重である。なお、神輿(...
左は鶴岡八幡宮の神楽殿(下拝殿)。階段の上には八幡宮の本殿が見える。階段は全部で62段。頼朝が鶴ケ岡(地名)から移した八幡宮は石段の下にあったと伝えられるが、建久2年(1193)に類焼したために同年1...
箱根権現として古くから信仰を集めてきた箱根神社である。特に、中世は、源頼朝を始めとする鎌倉幕府の信奉が厚く、曽我物語の舞台ともなっている。狛犬やお手植えの松がないことから、明治29年以前のものと分かる...
鶴岡八幡宮と大銀杏。八幡宮は、康平6年(1063)源頼義により初め由比ヶ浜に勧請され、後に、将軍頼朝により、現在の北山に移され、鎌倉の守護神となった。左の大銀杏の下で、1219年将軍源実朝が、公暁に殺...
目録番号4744から、若宮(わかみや)であることがわかる。鶴岡八幡宮は治承4年(1180)現若宮の所に勧請(かんじょう)されたという。写真の社殿は寛永元年(1624)の再建で、現重要文化財。屋根はこけ...
安芸の宮島の厳島神社は推古天皇即位元年に創建され,平安時代末期に平清盛によって今日に伝わる社殿整備が行われ,皇室をはじめ,戦国大名などによって厚く信仰されてきた。現在,社殿建造物40棟が国宝・重要文化...
九段の靖国神社。戊辰戦争で戦死した人を祀るために明治2年(1869)6月29日に創建された。当初は招魂社(しょうこんしゃ)といったが、明治12年(1879)6月4日に靖国神社と改められた。しかしそれ以...
正式名称は杭全(くまた)神社で、平安初期に坂上田村麻呂の子・孫によって創祀したと伝えられる。主神はスサノオの命。参道や境内のイチョウ、クスノキの古木や、仏像、絵画等多数の社宝によって知られている。Th...
入口の鳥居を入って直ぐの所にある太鼓橋の上から楼門を望む。手前には茶袴を穿いた女学生が5人並んでいる。合格祈願のお参りだろうか。心字池に架かる橋は太鼓橋・平橋・太鼓橋と3つ並ぶ。過去・現在・未来を表す...
茨城県旭村の玉沢稲荷神社前の石段下で、家族4人が並んで記念撮影をする。同社は、陸奥の安倍氏の反乱を平定した源頼義・義家の父子が、康平6年(1063)に鎌倉権太夫景道に命じ、父子が平定に向かう際に戦勝祈...
円覚寺総門か。円覚寺総門には後光厳天皇の宸筆「瑞鹿山」の額が掲げられており、右の奥の方に「般若水」と呼ばれる泉水があり、鎌倉五名水の一つである。その名の由来は、かつて出雲藩主松平不昧が参詣したとき、こ...
東海道線の西の起点、神戸駅付近から、北の湊川神社正門を眺めた風景。現中央区。明治中期の撮影だろう。右に見える演劇場は、明治23年 (1890) に大改築された大黒座。入口には目新しい電灯が設置されてい...
上宮楼門(じょうぐうろうもん)には扁額(へんがく)がない。また、神楽殿(かぐらでん)の正面には石段がのこるが、側面の「しとみ」と、屋根正面の唐破風(からはふ)上の棟(むね)がはずされている。排仏毀釈で...
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左は鶴岡八幡宮の神楽殿(下拝殿)。階段の上には八幡宮の本殿が見える。階段は全部で62段。頼朝が鶴ケ岡(地名)から移した八幡宮は石段の下にあったと伝えられるが、建久2年(1193)に類焼したために同年1...
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鶴岡八幡宮と大銀杏。八幡宮は、康平6年(1063)源頼義により初め由比ヶ浜に勧請され、後に、将軍頼朝により、現在の北山に移され、鎌倉の守護神となった。左の大銀杏の下で、1219年将軍源実朝が、公暁に殺...
目録番号4744から、若宮(わかみや)であることがわかる。鶴岡八幡宮は治承4年(1180)現若宮の所に勧請(かんじょう)されたという。写真の社殿は寛永元年(1624)の再建で、現重要文化財。屋根はこけ...
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円覚寺総門か。円覚寺総門には後光厳天皇の宸筆「瑞鹿山」の額が掲げられており、右の奥の方に「般若水」と呼ばれる泉水があり、鎌倉五名水の一つである。その名の由来は、かつて出雲藩主松平不昧が参詣したとき、こ...
東海道線の西の起点、神戸駅付近から、北の湊川神社正門を眺めた風景。現中央区。明治中期の撮影だろう。右に見える演劇場は、明治23年 (1890) に大改築された大黒座。入口には目新しい電灯が設置されてい...