九段坂は市ヶ谷から靖国神社の脇を経て神田方面に下る長い坂で、美しい桜並木が続いている。手前の壕は千鳥ガ淵。Kudanzaka is a long slope going down to the direction of Kanda from the side of Yasukuni Shrine from Ichigaya. A beautiful cherry boulevard continues. The moat to the fore is the Chidorigafuchi
写っているのは日光街道の杉並木ではない。場所は日光山内の東照宮から二荒山神社に通じる上新道(かみしんみち)。画面は二荒山神社側から東照宮方面を写している。杉木立の間に見える建物は本地堂(ほんじどう)と...
不忍池中島は、古くからあった小島を足掛かりに、水谷伊勢守勝隆が上野の山の土で埋め立てて築いた人工の島である。天海僧正によって、琵琶湖竹生島の弁財天が勧請され、多くの参詣者で賑わった。これらの堂宇は昭和...
明治後期から大正期(1890~1920)の手彩色の絵葉書。中川カルルスの絵葉書。長崎市中島川の中流域で上流から下流にかけての写真。冬枯れした、中川カルルスの風景。河岸と、周囲の風景が美しい、当時の長崎...
野毛山一帯には、明治3年(1870)に伊勢山皇大神宮や成田山横浜別院(通称野毛不動)が勧請された。山上から港や市街が一望できることもあり、桜や紅葉の季節には多くの参詣者を集めた。写真は現在の紅葉坂。P...
子供が子守をしながらの花見である。社地には梅と桜が数百株植えられたそうだ。現在は桜が1000本あるという。昭和40年(1965)から、東京の桜の開花宣言は、ここ靖国神社の桜を基準にして発せられている。...
江戸で桜の名所は数々あったが、小金井桜の人気は明治になっても衰えなかった。明治16年(1883)に明治天皇が行幸されたこと、明治22年(1889)甲武鉄道新宿ー立川間の開通で境駅(現武蔵境)と国分寺駅...
伊勢山皇大神宮の境内。伊勢山皇大神宮は、明治3年(1870)に戸部町の祠を野毛山に移して新たに造営された神社。大神宮が鎮座することによって野毛山は伊勢山と称され、境内は桜の名所として人々に親しまれた。...
円山公園の枝垂桜を南西側より東北東に望む。石垣と柵で囲われた大きな満開の枝垂桜の周囲は、花見に興じる大勢の人々で賑わっている。右奥に建つ也阿弥(やあみ)ホテルに続く参道の南側には、多くの茶店や露天が建...
赤坂御門を背にして弁慶橋を望む。堀は大工の棟梁弁慶小左衛門が築いたので弁慶堀と呼ばれた。 それで明治22年(1889)2月28日に弁慶堀を跨ぐ橋が出来た時、弁慶橋と名付けられた。坂の両側に桜が植えられ...
上野公園黒門通りを南から写したものである。右に大きく曲がった先に現在は東京国立博物館がある。正面の桜並木の奥の森に東照宮がある。人力車の車夫以外に人影が無く、まだ花見客もいない早朝の公園と思われる。K...
隅田川を挟んで浅草の反対側の地域を向島という。規定があるわけではないが、まあ木母寺(もくぼじ)の辺りから枕橋の辺りまでを向島と俗称するようである。向島の隅田川沿いの堤防は墨田堤と呼ばれ、また墨堤(ぼく...
神田方面から皇居内濠に沿って麹町の大地にあがる急勾配の坂。関東大震災後道路改正行事で緩くなった。明治4年に東京湾の漁船の目印にと燈明台が建てられた。遠景に望まれる丸天井の建物は駿河台のニコライ堂である...
明治後期から大正期(1870-1920)の手彩色の絵葉書。明治7年(1874)市民の遊楽地として、また外国人の旅情を満足させるために、諏訪神社に隣接して諏訪公園が造られた。玉園山の一部を公開したもので...
明治の新政府になって初めて作られた公園の一つがこの上野公園。芝公園もその一つだが、いずれにしろ将軍の菩提寺であった場所を市民に開放したという点が共通している。左手の奥に東屋が見え、中央の桜の根本に設え...
写っているのは日光街道の杉並木ではない。場所は日光山内の東照宮から二荒山神社に通じる上新道(かみしんみち)。画面は二荒山神社側から東照宮方面を写している。杉木立の間に見える建物は本地堂(ほんじどう)と...
不忍池中島は、古くからあった小島を足掛かりに、水谷伊勢守勝隆が上野の山の土で埋め立てて築いた人工の島である。天海僧正によって、琵琶湖竹生島の弁財天が勧請され、多くの参詣者で賑わった。これらの堂宇は昭和...
明治後期から大正期(1890~1920)の手彩色の絵葉書。中川カルルスの絵葉書。長崎市中島川の中流域で上流から下流にかけての写真。冬枯れした、中川カルルスの風景。河岸と、周囲の風景が美しい、当時の長崎...
野毛山一帯には、明治3年(1870)に伊勢山皇大神宮や成田山横浜別院(通称野毛不動)が勧請された。山上から港や市街が一望できることもあり、桜や紅葉の季節には多くの参詣者を集めた。写真は現在の紅葉坂。P...
子供が子守をしながらの花見である。社地には梅と桜が数百株植えられたそうだ。現在は桜が1000本あるという。昭和40年(1965)から、東京の桜の開花宣言は、ここ靖国神社の桜を基準にして発せられている。...
江戸で桜の名所は数々あったが、小金井桜の人気は明治になっても衰えなかった。明治16年(1883)に明治天皇が行幸されたこと、明治22年(1889)甲武鉄道新宿ー立川間の開通で境駅(現武蔵境)と国分寺駅...
伊勢山皇大神宮の境内。伊勢山皇大神宮は、明治3年(1870)に戸部町の祠を野毛山に移して新たに造営された神社。大神宮が鎮座することによって野毛山は伊勢山と称され、境内は桜の名所として人々に親しまれた。...
円山公園の枝垂桜を南西側より東北東に望む。石垣と柵で囲われた大きな満開の枝垂桜の周囲は、花見に興じる大勢の人々で賑わっている。右奥に建つ也阿弥(やあみ)ホテルに続く参道の南側には、多くの茶店や露天が建...
赤坂御門を背にして弁慶橋を望む。堀は大工の棟梁弁慶小左衛門が築いたので弁慶堀と呼ばれた。 それで明治22年(1889)2月28日に弁慶堀を跨ぐ橋が出来た時、弁慶橋と名付けられた。坂の両側に桜が植えられ...
上野公園黒門通りを南から写したものである。右に大きく曲がった先に現在は東京国立博物館がある。正面の桜並木の奥の森に東照宮がある。人力車の車夫以外に人影が無く、まだ花見客もいない早朝の公園と思われる。K...
隅田川を挟んで浅草の反対側の地域を向島という。規定があるわけではないが、まあ木母寺(もくぼじ)の辺りから枕橋の辺りまでを向島と俗称するようである。向島の隅田川沿いの堤防は墨田堤と呼ばれ、また墨堤(ぼく...
神田方面から皇居内濠に沿って麹町の大地にあがる急勾配の坂。関東大震災後道路改正行事で緩くなった。明治4年に東京湾の漁船の目印にと燈明台が建てられた。遠景に望まれる丸天井の建物は駿河台のニコライ堂である...
明治後期から大正期(1870-1920)の手彩色の絵葉書。明治7年(1874)市民の遊楽地として、また外国人の旅情を満足させるために、諏訪神社に隣接して諏訪公園が造られた。玉園山の一部を公開したもので...
明治の新政府になって初めて作られた公園の一つがこの上野公園。芝公園もその一つだが、いずれにしろ将軍の菩提寺であった場所を市民に開放したという点が共通している。左手の奥に東屋が見え、中央の桜の根本に設え...
写っているのは日光街道の杉並木ではない。場所は日光山内の東照宮から二荒山神社に通じる上新道(かみしんみち)。画面は二荒山神社側から東照宮方面を写している。杉木立の間に見える建物は本地堂(ほんじどう)と...
不忍池中島は、古くからあった小島を足掛かりに、水谷伊勢守勝隆が上野の山の土で埋め立てて築いた人工の島である。天海僧正によって、琵琶湖竹生島の弁財天が勧請され、多くの参詣者で賑わった。これらの堂宇は昭和...
明治後期から大正期(1890~1920)の手彩色の絵葉書。中川カルルスの絵葉書。長崎市中島川の中流域で上流から下流にかけての写真。冬枯れした、中川カルルスの風景。河岸と、周囲の風景が美しい、当時の長崎...