京都市東山区八坂通、三年坂から二年坂に名称が変わる所に子供が2人立っている。その先に永観寺の五重塔が見える。永観寺は平安時代以前からの古刹であるが、現在は、室町時代に再建されたこの塔と小堂のみが残っている。Two children stand at the point where Sannenzaka changes to Ninenzaka on Yasaka Street in the Higashiyama district of Kyoto. The five-story pagoda of Eikanji Temple can be seen ahead. Eikanji is an ancient temple dating back to the Heian era, but in the present temple, only this pagoda and a small temple remain from the restoration of the Muromachi period
猿沢池越しに興福寺五重塔を望む。興福寺は最初山科に建立され、平城遷都とともに現在の地に移されたと伝えられる。度重なる火災などにより一時廃寺状態に陥ったりもしたが、再興され現在に至っている。The fi...
詳細不明。平野部に位置すると思われる寺院の伽藍をなす三重の塔と講堂が映し出されている。Details unknown. The temple is probably located on the pl...
中央の五重塔は二代将軍秀忠が祈願で病が平癒したお礼にと寄進し、慶長13年(1608)に棟上式をあげた。慶長19年(1614)に地震で傾いていたので、五代将軍綱吉の命で、元禄14年(1701)に現在の場...
法観寺五重塔を西側参道から東に見上げる。ガス灯が建つ参道には、大勢の参詣人が往来し賑わっている。五重塔は八坂の塔とも呼ばれ、永享12年(1440)に足利義教により建立され、元和4年(1618)に大修理...
弁天池から五重塔を望む。五重塔は天慶5年(942)安房守平公雅(あわのかみたいらのきんまさ)の創建にかかると伝えられている。本写真に写る塔は慶安元年(1648)に再建されたものである。明治44年(19...
幸田露伴『五重塔』にも描かれた天台宗天王寺の墓地。手前に人力車、その向こうにあるのは荷車か。道沿いに松や桜が並んでいる。五重塔は昭和32年心中放火事件のため消失。現在は礎石のみが残る。徳川慶喜の墓があ...
寛永8年(1631)幕府重臣土井利勝が建立し上野東照宮に寄進。寛永16年(1639)薬師堂からの出火で類焼。写真の塔は同年土井利勝が再建したもの。手前は東照宮の石灯籠。参道の北側、上野動物園の敷地内に...
日光東照宮五重塔は一の鳥居の左奥にある。 朱塗りの五重塔は最上層は唐様、 下四層は和様である。 一階屋根下に十二支の動物が彫り込まれている。 内部に五智如来が安置されている。 菅笠をかぶった人と背負っ...
仁和寺五重塔を塔西側から東に見上げる。辺りには小高い松の木と、御室桜が植えられている。手前の左右に続く参道は仁和寺の仁王門と金堂をつなぐ。仁和寺五重塔は寛永14年(1637)に徳川家光が創建した。各方...
寛永16年(1639)に古河城主土井利勝によって再建されたもの。手前の石灯籠は上野東照宮参道に並ぶもので、左手が東照宮本殿となる。本来は東照宮の五重塔であったが明治の神仏分離によって寛永寺に帰属した。...
四天王寺伽藍の一部をなす五重の塔。享和元年12月5日落雷により焼失し、文化9年に再建されたものが、本被写体に当たる。昭和20年戦火により諸堂は再び焼失、昭和38年までに鉄筋で再建され、現在に至っている...
東照宮五重塔は慶安2年酒井忠勝によって寄進されたが、 火災で焼失し、 文政元年(1818)に酒井忠進によって再建された。 その内部には五智如来と四体の守護神の像が安置されている。The five-st...
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真が、1枚物やそれをアルバムにして販売されたのに対して、個人アルバムは貴重である。全て、鮮やかな彩色がされてい...
江戸時代の名古屋は、城と熱田を南北に結ぶ本町通が中心道路であった。大須観音は本町通の西に位置する。この写真は大須観音の南上空から撮影したものである。左から本堂、五重塔、その右奥に書院と庫裏、その右手前...
2414の写真と似ているが、鐘楼の手前に車井戸が掘られた。それに左の弁天池がなくなっているのが異なる。弁天池は明治19年(1886)6月30日に埋められたので、当然それ以降の撮影である。右下のネガ番号...
猿沢池越しに興福寺五重塔を望む。興福寺は最初山科に建立され、平城遷都とともに現在の地に移されたと伝えられる。度重なる火災などにより一時廃寺状態に陥ったりもしたが、再興され現在に至っている。The fi...
詳細不明。平野部に位置すると思われる寺院の伽藍をなす三重の塔と講堂が映し出されている。Details unknown. The temple is probably located on the pl...
中央の五重塔は二代将軍秀忠が祈願で病が平癒したお礼にと寄進し、慶長13年(1608)に棟上式をあげた。慶長19年(1614)に地震で傾いていたので、五代将軍綱吉の命で、元禄14年(1701)に現在の場...
法観寺五重塔を西側参道から東に見上げる。ガス灯が建つ参道には、大勢の参詣人が往来し賑わっている。五重塔は八坂の塔とも呼ばれ、永享12年(1440)に足利義教により建立され、元和4年(1618)に大修理...
弁天池から五重塔を望む。五重塔は天慶5年(942)安房守平公雅(あわのかみたいらのきんまさ)の創建にかかると伝えられている。本写真に写る塔は慶安元年(1648)に再建されたものである。明治44年(19...
幸田露伴『五重塔』にも描かれた天台宗天王寺の墓地。手前に人力車、その向こうにあるのは荷車か。道沿いに松や桜が並んでいる。五重塔は昭和32年心中放火事件のため消失。現在は礎石のみが残る。徳川慶喜の墓があ...
寛永8年(1631)幕府重臣土井利勝が建立し上野東照宮に寄進。寛永16年(1639)薬師堂からの出火で類焼。写真の塔は同年土井利勝が再建したもの。手前は東照宮の石灯籠。参道の北側、上野動物園の敷地内に...
日光東照宮五重塔は一の鳥居の左奥にある。 朱塗りの五重塔は最上層は唐様、 下四層は和様である。 一階屋根下に十二支の動物が彫り込まれている。 内部に五智如来が安置されている。 菅笠をかぶった人と背負っ...
仁和寺五重塔を塔西側から東に見上げる。辺りには小高い松の木と、御室桜が植えられている。手前の左右に続く参道は仁和寺の仁王門と金堂をつなぐ。仁和寺五重塔は寛永14年(1637)に徳川家光が創建した。各方...
寛永16年(1639)に古河城主土井利勝によって再建されたもの。手前の石灯籠は上野東照宮参道に並ぶもので、左手が東照宮本殿となる。本来は東照宮の五重塔であったが明治の神仏分離によって寛永寺に帰属した。...
四天王寺伽藍の一部をなす五重の塔。享和元年12月5日落雷により焼失し、文化9年に再建されたものが、本被写体に当たる。昭和20年戦火により諸堂は再び焼失、昭和38年までに鉄筋で再建され、現在に至っている...
東照宮五重塔は慶安2年酒井忠勝によって寄進されたが、 火災で焼失し、 文政元年(1818)に酒井忠進によって再建された。 その内部には五智如来と四体の守護神の像が安置されている。The five-st...
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真が、1枚物やそれをアルバムにして販売されたのに対して、個人アルバムは貴重である。全て、鮮やかな彩色がされてい...
江戸時代の名古屋は、城と熱田を南北に結ぶ本町通が中心道路であった。大須観音は本町通の西に位置する。この写真は大須観音の南上空から撮影したものである。左から本堂、五重塔、その右奥に書院と庫裏、その右手前...
2414の写真と似ているが、鐘楼の手前に車井戸が掘られた。それに左の弁天池がなくなっているのが異なる。弁天池は明治19年(1886)6月30日に埋められたので、当然それ以降の撮影である。右下のネガ番号...
猿沢池越しに興福寺五重塔を望む。興福寺は最初山科に建立され、平城遷都とともに現在の地に移されたと伝えられる。度重なる火災などにより一時廃寺状態に陥ったりもしたが、再興され現在に至っている。The fi...
詳細不明。平野部に位置すると思われる寺院の伽藍をなす三重の塔と講堂が映し出されている。Details unknown. The temple is probably located on the pl...
中央の五重塔は二代将軍秀忠が祈願で病が平癒したお礼にと寄進し、慶長13年(1608)に棟上式をあげた。慶長19年(1614)に地震で傾いていたので、五代将軍綱吉の命で、元禄14年(1701)に現在の場...