関内外国人居留地本村通りからこの堀川にかかっていた前田橋を渡り、元町2丁目と3丁目の境を抜けると元町百段下につきあたる。前田橋は明治23年(1890)に土田鉄雄の設計で見られるような鉄橋になった。People crossed Maeda Bridge spanning the Hori River from the foreign settlement of Kannai on Honmura street, and proceeded through Motomachi 2 chome and 3 chome to Motomachi Hyakudanshita. The steel Maeda Bridge was designed by Tsuchida Tetsuo in 1890
淀川・中之島付近にかかる写真手前の難波橋から、天神橋、さらに奥には天満橋もわずかに見えている。明治9年(1876)に難波橋が鉄橋化される以前の姿である。Bridges built over Yodo ...
両国の側から花街で知られる柳橋を見たところ。ここで神田川が隅田川に合流する。屋根のついた屋形船は単に重要な交通手段であったばかりではなく、広い意味でのさまざまなコミュニケーションの場でもあった。The...
左端は山下居留地69番館。その奥に旧ヘボン邸。煙突をもった建物がグランド・ホテル旧館。谷戸橋(明治20年に鉄橋化)を挟んで山手側には、サルダ(P.Sarda)設計のフランス領事館の付属施設が見えている...
横浜元町百段と堀川前田橋が撮影されている。前田橋は当初木橋であったが、明治23年、鉄の橋に架け換えられた。写真の橋は、鉄製の3連プレートガーダー橋である。高覧が美しい。The hundred step...
居留地109番付近より元町を見る。手前を流れる堀川は、万延元年(1860)居留地と元町の境に開削され、明治初年(1868)、ブラントン(R.H.Brunton)の設計により、拡幅工事と護岸整備が行なわ...
元町百段上からの景。手前は元町の家並み、堀川の向こうが山下居留地。右端に増徳院、その左遠方にグランド・ホテル新館(明治20年竣工)が見える。元町百段上からは、幕末以来しばしばパノラマ写真が撮影されてお...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造...
元町百段上から山下居留地をみる。堀川より手前の家並みは元町。突きあたり(画面右端)に増徳院が見える。沖の白灯台は明治20年代の横浜築港工事で建設されたもの。明治29年(1896)に竣工しており、撮影は...
増徳院境内から元町通りを見る。山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。居留外国人の需要に応ずる商業地として発展した。左手の山上に見えるのは、元町百段上の浅間神...
順天堂医院の前から、共に明治24年(1891)に竣工した御茶の水橋とニコライ堂を望む。開削された人工の神田川を挟んで、左(北)側が湯島台で右(南)側が駿河台になる。江戸防衛のためこの台地には御茶の水橋...
居留地より堀川越しに、元町増徳院方面を見たもの。運河の向こうに谷戸橋が見える。堀川沿いの居留地の街路と元町増徳院付近が撮影されている。The direction of Zotokuin of Moto...
手前に阿弥陀橋、奥に高麗橋が写っている。上流から下流に向かって撮影されている。整理番号14-42とほとんど同じ写真であるが、この写真では右手の家などが少し広く写っている。Amida Bridge is...
天満橋八軒家は、淀川を上下し、京・伏見と大阪を結ぶ三十石舟の船着き場であった。橋の南詰めに八軒の家があったことからこの名が残ったという。Hakkenya of Tenmanbashi was a pi...
ベアトによる1865年10月の書き込み。横浜の山手から居留地の裏の吉田新田を望む。左の丘には外国人と編み笠および半裸の日本人がみえる。橋は西ノ橋、中央の家並みは元町になる。Written "Octob...
大谷川(だいやがわ)に架かる2本の橋。左の朱塗りの橋が神橋(神橋)。その右隣は仮橋。日光山内の入口でもあるこれらの橋は明治35(1902)年の大水害で大谷川が氾濫したため流失した。地面には残雪が見られ...
淀川・中之島付近にかかる写真手前の難波橋から、天神橋、さらに奥には天満橋もわずかに見えている。明治9年(1876)に難波橋が鉄橋化される以前の姿である。Bridges built over Yodo ...
両国の側から花街で知られる柳橋を見たところ。ここで神田川が隅田川に合流する。屋根のついた屋形船は単に重要な交通手段であったばかりではなく、広い意味でのさまざまなコミュニケーションの場でもあった。The...
左端は山下居留地69番館。その奥に旧ヘボン邸。煙突をもった建物がグランド・ホテル旧館。谷戸橋(明治20年に鉄橋化)を挟んで山手側には、サルダ(P.Sarda)設計のフランス領事館の付属施設が見えている...
横浜元町百段と堀川前田橋が撮影されている。前田橋は当初木橋であったが、明治23年、鉄の橋に架け換えられた。写真の橋は、鉄製の3連プレートガーダー橋である。高覧が美しい。The hundred step...
居留地109番付近より元町を見る。手前を流れる堀川は、万延元年(1860)居留地と元町の境に開削され、明治初年(1868)、ブラントン(R.H.Brunton)の設計により、拡幅工事と護岸整備が行なわ...
元町百段上からの景。手前は元町の家並み、堀川の向こうが山下居留地。右端に増徳院、その左遠方にグランド・ホテル新館(明治20年竣工)が見える。元町百段上からは、幕末以来しばしばパノラマ写真が撮影されてお...
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造...
元町百段上から山下居留地をみる。堀川より手前の家並みは元町。突きあたり(画面右端)に増徳院が見える。沖の白灯台は明治20年代の横浜築港工事で建設されたもの。明治29年(1896)に竣工しており、撮影は...
増徳院境内から元町通りを見る。山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。居留外国人の需要に応ずる商業地として発展した。左手の山上に見えるのは、元町百段上の浅間神...
順天堂医院の前から、共に明治24年(1891)に竣工した御茶の水橋とニコライ堂を望む。開削された人工の神田川を挟んで、左(北)側が湯島台で右(南)側が駿河台になる。江戸防衛のためこの台地には御茶の水橋...
居留地より堀川越しに、元町増徳院方面を見たもの。運河の向こうに谷戸橋が見える。堀川沿いの居留地の街路と元町増徳院付近が撮影されている。The direction of Zotokuin of Moto...
手前に阿弥陀橋、奥に高麗橋が写っている。上流から下流に向かって撮影されている。整理番号14-42とほとんど同じ写真であるが、この写真では右手の家などが少し広く写っている。Amida Bridge is...
天満橋八軒家は、淀川を上下し、京・伏見と大阪を結ぶ三十石舟の船着き場であった。橋の南詰めに八軒の家があったことからこの名が残ったという。Hakkenya of Tenmanbashi was a pi...
ベアトによる1865年10月の書き込み。横浜の山手から居留地の裏の吉田新田を望む。左の丘には外国人と編み笠および半裸の日本人がみえる。橋は西ノ橋、中央の家並みは元町になる。Written "Octob...
大谷川(だいやがわ)に架かる2本の橋。左の朱塗りの橋が神橋(神橋)。その右隣は仮橋。日光山内の入口でもあるこれらの橋は明治35(1902)年の大水害で大谷川が氾濫したため流失した。地面には残雪が見られ...
淀川・中之島付近にかかる写真手前の難波橋から、天神橋、さらに奥には天満橋もわずかに見えている。明治9年(1876)に難波橋が鉄橋化される以前の姿である。Bridges built over Yodo ...
両国の側から花街で知られる柳橋を見たところ。ここで神田川が隅田川に合流する。屋根のついた屋形船は単に重要な交通手段であったばかりではなく、広い意味でのさまざまなコミュニケーションの場でもあった。The...
左端は山下居留地69番館。その奥に旧ヘボン邸。煙突をもった建物がグランド・ホテル旧館。谷戸橋(明治20年に鉄橋化)を挟んで山手側には、サルダ(P.Sarda)設計のフランス領事館の付属施設が見えている...