本稿では、寺院における近世天皇家の追善仏事の執行体制と、それを主導した泉涌寺と般舟院を始めとする御黒戸寺院の地位の変遷に関する検討を行った。 近世天皇家の追善仏事は、中陰法要、「年忌法要」、「回忌法要」に大別される。葬送儀礼に連続して開催される中陰法要は、17世紀初頭に般舟院が専管していたが、17世紀末~18世紀初頭にかけて、泉涌寺における執行が朝廷により徐々に認められ、宝永期に般舟院と同等格式での執行が認可される。「年忌法要」・「回忌法要」は、天皇の場合は泉涌寺・般舟院、女院の場合は、般舟院とそれぞれの被葬寺院にて開催されるのが原則であった。また、中陰法要の際は、葬送儀礼同様に所司代・上方譜代藩による警衛が、年忌法要の際は禁裏附による管理がなされており、これらの執行にかかる費用は、幕府の臨時財政により負担されていた。だが、各法要の開催をめぐり武家が介入する様相は確認できず、協調を基本とする近世朝幕関係のあり方に対応して、寺院における追善仏事の執行体制は維持されていた。 近世天皇家の追善仏事の展開における最大の特徴は、17世紀後半以降、御所内で開催される宮中法会の割合が減少し、寺院に委任する形の開催が恒常化して多数を占めるようになることである。追善仏事の開催場所は近世を通じて般舟院が最も多いが、17世紀後半から泉涌寺の台頭が顕著になる。これは、後水尾天皇・東福門院が泉涌寺へ深い帰依を示したことを背景に、朝幕双方の意向に基づいて、泉涌寺の復興が寛文期に進んだためであった。泉涌寺における追善仏事の開催が定着したことで、享保期に般舟院が焼失した際には、所司代より「御寺」が二つ存在することに疑義が出された。再建をめぐり、般舟院は自らを「回忌法要」を専管する「禁裏御仏殿」であるとの主...