吉村(芳村)観阿(一七六五―一八四八)は江戸時代後期に活躍した町人数寄者である。観阿の行状としては、同人が所持していた俊乗房重源(一一二一―一二〇六)による勧進状――東大寺東塔の完成後は童を配して法華経を千部、転読させたい旨を認めている――を東大寺に寄進し、その敷地内に寿蔵(生前墓碑)の建立を許されたこと、松江藩七代藩主松平治郷(不昧/一七五一―一八一八)や新発田藩十代藩主溝口直諒(翠濤/一七九九―一八五八)の茶会に参会したこと、八十歳の年賀に際し蒔絵師の原羊遊斎(一七六九―一八四五)に依頼し一閑張桃之絵細棗を百二十五個作成させたことがよく知られている。 観阿に関する先行研究では、その墓碑および観阿作の茶碗や茶杓などが取り上げられてきた。また観阿の言動を後世になって書き留めた『白醉庵筆記』が紹介されている。しかし先行研究では、観阿が江戸時代後期の主要な茶人であるにもかかわらず、資料の不足からその行状を十分明らかにできていない。本稿では観阿の所蔵や取次ぎ、制作が確認される茶器・茶道具および、溝口家資料に注目する。これらの新たに判明した資料を活用し、観阿の行状を明らかにすることで、松平家および溝口家の道具蒐集など、観阿を取り巻く当時の茶の湯文化を検討する。 本稿では、次の四点に注目する。一点目は観阿と不昧、翠濤との交流である。両者との交流を茶会や道具の取次ぎから検討する。二点目は法隆寺が所蔵する弘法大師額の額箱である。額箱には観阿、妻観勢、その子の署名が確認でき、観阿の妻子について検討する。三点目は観阿の八十賀の茶会である。今回の調査ではその八十賀茶会記を確認し、茶会で使用された道具についても検討する。四点目は観阿の生業として道具の取次である。その具体的な状況を明らかにするため...