application/pdf昭和七年三月の満州国建国宣言から同年九月の満州国承認までの、排外熱が一段落した時期に、日本国内で唱えられたのがアジアの融和と平和であった。そこで大きな役割を果たしたのが子供である。 子供による日満親善交流を日満両政府や関東軍は、満州侵略の正当性を大衆に宣伝するための効果的なイベントとして認めていた。さらに日本から行状のよくない移民が多数流入した満州国では、反日感情が増幅しており、国民レベルで融和をはかる必要性もあった。そこで日満融和の名のもとに、民間教育団体である全教連と新聞社が共同で主催する日本学童使節に全面的に協力するのである。 学童使節は、文相、拓相のメッセージ持参をはじめ、首相など主要閣僚、満州国の執政、国務総理、関東軍司令官等の要人への謁見や満鉄、新聞社、立ち寄り先の国内外の都市の首長や役所、在留邦人団体などの訪問にも重点を置く。そして帰路朝鮮にも立ち寄り内鮮融和をはかるなど、日満融和を唱える日本の宣伝活動の役割を担っていた。 さらに派遣日程が、満州事変一周年と満州国承認に重なり、その関連イベントとしての要素を強め、国民的な支持を広げる。それが新聞報道を過熱させ、予想以上の相乗効果を生み出す。日本学童使節は非公式ながら、ある意味では国家的な使命を帯びた使節となり、大衆意識を国家戦略へと誘うイベントにまで成長したといえるだろう。政府や軍は、大人社会の醜さを覆い隠す子供による日満親善交流の政治的な利用価値を認めたのだ。 さらに昭和九年初頭、日本学童使節をモデルにした皇太子誕生を祝う二つの学童使節が『大毎』・『東日』と朝鮮総督府の御用新聞『京城日報』の主催で企画実行される。その方法論は、国家への帰属意識を高めるイベントへと応用され、主人公も少...