application/pdf日本列島に展開した各時代史において,村落や都市などを守る拠点,あるいは全体を囲む防備施設が存在した。弥生時代の環濠集落を嚆矢(こうし)として,各時代に各々特色ある防禦施設あるいは軍事施設の様相が展開したことが知られてきた。中世や近世の城郭がその代表例であるが,各時代を通じた施設の実態や変遷,多様性などはまだ十分に把握されておらず,解明を要する。 西暦7~9世紀頃の古代国家の時代には,西日本に山城,列島中央部に都城や関,東日本に城柵の造営があり,それらと関わる歴史の展開が知られている。文献で知られている遺跡の大半は考古学的調査が及んで居り,文献にみえない遺跡まで知られるに至った。多大な労力と費用をかけて維持された古代の大規模なこれらの施設の歴史は,対外交流を本格化したこの時代の特質と深く関わっている。これまでの定説的理解では,文献史料の限界や考古学的蓄積の不足もあって,その実態が知られないままに,極めて過少に評価されてきた面がある。小論では,日本列島の古代において,必要に応じた十分な施設が,国家統合や防衛,都市や村落の防備において,日本列島各地に展開した事例を指摘することができる。その代表例として,大宰府や平城京,東国の城柵の一例をとりあげてみた。しかし防備施設の普遍的な存在や時期的展開には,まだ十分に明らかになっていない点も多い。村落でも,7~8世紀,10~11世紀などに,一定の地域で必要に応じた防備された村落が展開したことも判明してきている。小論は,古代における防備施設自体の実態,及び城郭と都市との関係について見直し,新しい見解を提案するものである。In each of the periods of the history of the Jap...