哲学は数学と違って一意に決まらない。数学では、AであればBだけが成り立ち、BであればCしか導き出せないという論理は、論理の展開に選択の余地がなく、必然的かつ論理的に証明可能となる。ところが哲学史をみると哲学は様々な分野があり、これを代表する哲学者の専門とする立場もそれぞれ異なる。自分の立場を擁護する人もあれば、世の中の矛盾を指摘して世界を変えたい、あるいは極めて個人的な心情を説明したいという理由から哲学を始めている傾向が読み取れる。その立場に立つと理解できるが、単に論理的真偽だけで判断すると哲学者の意図を見逃すことになる。様々な哲学があるということは哲学者の立場が多様であることを表している。どの哲学が正しくて他は間違いとはいえない。認 識が甘いとか、論理の立て方がおかしいなどの指摘はできる。また、哲学者の立場も時代性があり普遍ではなく時々刻々と変わる。いわば動いている電車の窓から見える風景を論じているようなものである。窓ごとに見る人の情報をまとめてから風景を論じると風景の全体像の理解に近づく。しかし、これから風景を創るもの、しくみを理解することはできない。人の表情から人間の本質である人間存在の意味を理解することはできない。表情は人間の一表現形式に過ぎない。なぜそのような表情をとる必要があるのかについて推論を進めるだけである。表現は文芸、芸術、科学、思想、宗教などあらゆる手段、領域に及ぶ。人間のあらゆる活動は自己表現の形式である。マルクスの資本論は資本の独占階級が社会的影響を与えていた時代を背景にしている。資本が一般人に行き渡り階級が限定できなくなると唯物史観も揺らぎ始める。しかし、条件を特定する限りにおいて資本家の考え方や行動を探ることはできる。この意味において人間の一面的な...