徳川家康の叙位任官については、家康が歴史上重要な人物であるだけに、一般書も含め多く取り上げられてきたが、基礎的事実を十分に検討しないまま、その歴史的意味が論じられている。この問題についての専論は少なく、またこうした研究においても見解が一致していないのが現状である。本稿では、事実関係が不確定な家康の左京大夫・中納言・大納言・左大将任官を中心に分析する。家康は、三河守初任に続いて左京大夫に任じられるが、左京大夫は朝廷関係以外では使用することなく左京大夫任官後も前官の三河守を使用した。朝廷官位使用の特異な事例である。任中納言の年月日は、従来天正十四年(一五八六)十月四日とされてきたが、事実は同年十一月五日であるとし、その意味を秀吉への臣従儀礼の中に位置づけた。また家康の源氏改姓が聚楽第行幸を機になされたとされてきたものを、それに先立つ天正十五年八月には源姓であったことを明らかにした。さらに天正十五年の任左大将は、正保二年(一六四五)の将軍家光の要請をうけて口宣案が改められた折に遡及して任じられたものであり、天正十五年時点での任官の事実はなく、この任左大将をめぐる論争はそもそも成立しないとした。The study of early-modern Japanese political history has witnessed great progress in recent years. This progress includes a deeper understanding of the ranks and offices awarded to samurai. However, in regard to the fundamental facts and dating of s...