個人情報保護のため削除部分あり少なくとも九世紀末には成立していたと推定される陣定に対する摂関家の支配が確立したのは、道長、頼通という摂関政治の全盛期である。またこの時代に、陣定は国家の重大事から日常政務までを審議する公卿議定制の中核に位置づけられた。院政期になると寺社嗷訴が頻発するが、これに対処する中で陣定の限界が明らかになり、内裏の御前定、殿上定以下の公卿議定が多くなる。嘉承二年(一一〇七) の堀河天皇の死とともに寺社嗷訴に対しては院御所議定が中心となり、これ以降、院御所議定ははじめて家政的次元を越えた国政上の問題を扱う「最高審理機関」となる。ここに院御所議定制が成立し、政治の主導権を院が完全に手中にし、以後の専制君主としての院の性格の起点はこの時点に求められる。It is in the golden age of the rule of the Regency, the age of Michinaga 道長 and Yorimichi 頼通, that the Regent Family assumed control of Jinnosadame 陣定 which had been established at least since the late 9th century. In those days Jinnosadame formed the nucleus of the court noble's proceeding-system which discussed various matters from the national ones to the routine. In the period of the ex-emperor's governmen...
個人情報保護のため削除部分あり一四世紀以降、チェコでは徐々に二元的国制が姿を現すが、領邦身分の成長は主に王権に対抗できる貴族共同体の成立という観点から研究がすすめられてきた。しかし従来の研究は共同体理...
個人情報保護のため削除部分あり本稿は、李朝初期に全面的に改編した郡県制とは、専制王権が実現する地方官制の確立過程である一方、それを「本貫」地としながら自己を形成してくる土姓士族、とくにその同族集団によ...
近世の朝廷が発令した「触穢令」が、伊勢神宮に与えた影響の時期的変化を見ながら、近世の伊勢神宮と朝廷との関係を考察した。「触穢令」は天皇・上皇・女院の死に際して朝廷から出されるものだが、前期には江戸将軍...
漢代から三国魏にかけていずれも上奏文の最終的な裁可は、皇帝が担っていた。裁可の形式について、漢代及び三国魏では、「可」などの裁可を示す文字もしくは赤い鉤印によるものであった可能性が高い。漢魏時代とも皇...
publisher奈良朝廷儀式は朝廷の経済的困窮と儀式を運営する公家の多くが地方下向したことにより、応仁の乱以降多くが中絶した。朝廷儀式が再興され始めるのは、豊臣期からである。朝尾直弘氏は、「天下人が...
本稿では、霊元天皇在位時の奥について、天皇の「母」である東福門院の役割に注目し、幕府の動向にも留意して具体的に検討した。天皇幼年時の奥は、東福門院と三条西実教などが統括する体制であった。皇継をめぐって...
皇位継承儀礼において、ある時点を皇位継承時点として意識し、空位を徹底的に避けるようになるのは、律令文書行政が整備された大宝〜養老年間以降のことである。これは、八世紀の天皇が律令文書行政の最高決裁者で、...
埼玉県越谷市663年の白村江の敗戦以後の日本の社会を、唐の占領政策のもとにいかに展開したかを描いた。従来の説では、唐による占領政策はなかったものとして、両国は戦争をしたにもかかわらず、友好関係を維持し...
個人情報保護のため削除部分あり八世紀末から九世期初頭にかけて、ビザソツ帝国の政情は大きく混乱していた。その背景には、相次ぐ政権交代などによる皇帝権力の弱体化とそれと対照をなす高官・高位保持者たちの政治...
隋唐時代の政治的統一の基礎には、国家権力に対する人民の近接化があるのではないか。勿論そこには官僚制が媒介されているのであるが、国家権力と人民とのこうした関係を「自由民」体制とよぶとすれば、その淵源のひ...
サンフランシスコ講和条約期になると、天皇退位論が再浮上した。その議論の特徴は二つある。第一に、敗戦後一貫して主張されてきた天皇の「道徳」的責任論を引き継いでいたことである。天皇は日本という国家の「道徳...
個人情報保護のため削除部分ありドイツのビザンツ研究者である H. G. Beck は、ビザンツ帝国の社会の特色を説明するにあたって社会的流動性の高さを重要なファクターとして考え、「従者団」という概念を...
個人情報保護のため削除部分あり本稿では、平安期の皇太子在所の所在地を明らかにし、それを通して政治形態や宮都の変化を考察した。当初東宮であった皇太子在所は、一○世紀には内裏後宮へと移ったが、在所が宮城内...
publisher奈良宮廷詩宴について、これまで発表した拙稿で触れ得なかったいくつかの問題を検討した。宮廷詩宴における詩作は、天皇賛美に流れ込む傾向があること、平安初期の勅撰三集においても、〈公宴〉と...
平安前期、十世紀中葉にいたって東国の地に反乱が起る。平将門によるものがそれである。この乱がその後の政治過程に与えた影響は決定的とも思われ、「律令国家」の崩壊、武士の発生などの観点から、いままでも分析が...
個人情報保護のため削除部分あり一四世紀以降、チェコでは徐々に二元的国制が姿を現すが、領邦身分の成長は主に王権に対抗できる貴族共同体の成立という観点から研究がすすめられてきた。しかし従来の研究は共同体理...
個人情報保護のため削除部分あり本稿は、李朝初期に全面的に改編した郡県制とは、専制王権が実現する地方官制の確立過程である一方、それを「本貫」地としながら自己を形成してくる土姓士族、とくにその同族集団によ...
近世の朝廷が発令した「触穢令」が、伊勢神宮に与えた影響の時期的変化を見ながら、近世の伊勢神宮と朝廷との関係を考察した。「触穢令」は天皇・上皇・女院の死に際して朝廷から出されるものだが、前期には江戸将軍...
漢代から三国魏にかけていずれも上奏文の最終的な裁可は、皇帝が担っていた。裁可の形式について、漢代及び三国魏では、「可」などの裁可を示す文字もしくは赤い鉤印によるものであった可能性が高い。漢魏時代とも皇...
publisher奈良朝廷儀式は朝廷の経済的困窮と儀式を運営する公家の多くが地方下向したことにより、応仁の乱以降多くが中絶した。朝廷儀式が再興され始めるのは、豊臣期からである。朝尾直弘氏は、「天下人が...
本稿では、霊元天皇在位時の奥について、天皇の「母」である東福門院の役割に注目し、幕府の動向にも留意して具体的に検討した。天皇幼年時の奥は、東福門院と三条西実教などが統括する体制であった。皇継をめぐって...
皇位継承儀礼において、ある時点を皇位継承時点として意識し、空位を徹底的に避けるようになるのは、律令文書行政が整備された大宝〜養老年間以降のことである。これは、八世紀の天皇が律令文書行政の最高決裁者で、...
埼玉県越谷市663年の白村江の敗戦以後の日本の社会を、唐の占領政策のもとにいかに展開したかを描いた。従来の説では、唐による占領政策はなかったものとして、両国は戦争をしたにもかかわらず、友好関係を維持し...
個人情報保護のため削除部分あり八世紀末から九世期初頭にかけて、ビザソツ帝国の政情は大きく混乱していた。その背景には、相次ぐ政権交代などによる皇帝権力の弱体化とそれと対照をなす高官・高位保持者たちの政治...
隋唐時代の政治的統一の基礎には、国家権力に対する人民の近接化があるのではないか。勿論そこには官僚制が媒介されているのであるが、国家権力と人民とのこうした関係を「自由民」体制とよぶとすれば、その淵源のひ...
サンフランシスコ講和条約期になると、天皇退位論が再浮上した。その議論の特徴は二つある。第一に、敗戦後一貫して主張されてきた天皇の「道徳」的責任論を引き継いでいたことである。天皇は日本という国家の「道徳...
個人情報保護のため削除部分ありドイツのビザンツ研究者である H. G. Beck は、ビザンツ帝国の社会の特色を説明するにあたって社会的流動性の高さを重要なファクターとして考え、「従者団」という概念を...
個人情報保護のため削除部分あり本稿では、平安期の皇太子在所の所在地を明らかにし、それを通して政治形態や宮都の変化を考察した。当初東宮であった皇太子在所は、一○世紀には内裏後宮へと移ったが、在所が宮城内...
publisher奈良宮廷詩宴について、これまで発表した拙稿で触れ得なかったいくつかの問題を検討した。宮廷詩宴における詩作は、天皇賛美に流れ込む傾向があること、平安初期の勅撰三集においても、〈公宴〉と...
平安前期、十世紀中葉にいたって東国の地に反乱が起る。平将門によるものがそれである。この乱がその後の政治過程に与えた影響は決定的とも思われ、「律令国家」の崩壊、武士の発生などの観点から、いままでも分析が...
個人情報保護のため削除部分あり一四世紀以降、チェコでは徐々に二元的国制が姿を現すが、領邦身分の成長は主に王権に対抗できる貴族共同体の成立という観点から研究がすすめられてきた。しかし従来の研究は共同体理...
個人情報保護のため削除部分あり本稿は、李朝初期に全面的に改編した郡県制とは、専制王権が実現する地方官制の確立過程である一方、それを「本貫」地としながら自己を形成してくる土姓士族、とくにその同族集団によ...
近世の朝廷が発令した「触穢令」が、伊勢神宮に与えた影響の時期的変化を見ながら、近世の伊勢神宮と朝廷との関係を考察した。「触穢令」は天皇・上皇・女院の死に際して朝廷から出されるものだが、前期には江戸将軍...